イカと醤油

 日記とはつまらん、やっかいかな。
 気苦労ばかりだ。
 朝、なんか本読んでたっけ? 水道橋博士が今朝ラジオで「僕は引きこもりだった頃に学校とか行けない腹いせみたいなもので本をずっと読んでいたが、そのうちビートたけしが師匠になったりして、日常がドラマのようなものになって小説を読む必要はなくなった」と言っていた。
 日常がドラマのようになる。ドラマというものが、非日常とイコールで結ばれるように今は僕はそんなには考えないようになった。ドラマの中で動く心性は日常以上に日常的なものだ。自殺とか、他殺とかいってもそうだ。「もぉ、マヂしにたぃ・・・」とかつぶやいてる子供はたくさんいる。「あいつ絶対ぶっ殺す」と思っている人間も、思われている人間も山ほどいるだろう。それが単に表出しているものとして見れば、全く日常の心象光景が繰り広げられているのであって、身に迫るリアルなものでも何でもない。
 日常は身に迫らない。それに対応する非日常とは、「現実」と呼ぶんじゃないか?
 自分の母親が死ぬとなったら、それは非日常で、現実だ。自分の母親で考えることはあり得ないが、もしこの人が亡くなった場合に、この人の息子はどうするだろう。なにを考え始めるだろう。それは、どこに終着するだろう。そもそも、終わりなんてあるのだろうか。自分の死なんて、それこそあり得ない。あれほど死と背中合わせの人たちでさえ、死をどこか遠くのもの、他人のもの(他人を自分に近くイメージしないなんて……)として思い描いている。どんな人間も、死ぬほんとに一秒に満たない寸前まで、自分は生きているし、これからも生き続けると思っているのかもしれない。ある意味、それは合っている。
 死を考えるときは寂しいときだと精神科医は言うが、じゃあ寂しくないときに考える死が、本当に死を考えることなのだろうか。死を考えることは全て寂しさを表現しているのであって、死に対して考えることは、出来ないのだろうか。全てが寂しさの表現だという。
 今日はワガママな言説が多いな。頭を切り替えなければ。それというのも、水道橋博士保坂和志が本質にイマイチ迫らないありきたりのことを語ってしまってるからだ。人の来歴なんか聞いて、いつも同じ答えしか返ってこないに決まっている。これもワガママな言い分だが……。
 今日は晴れていたので、これから少なくなってくるであろうお洗濯日和だった。洗濯は仕事なので死活問題だ。
「今日はいいお天気ですね、絶好の洗濯日和です」が、必死の形相で会話される。それで、日常とは非日常ではなく現実であるだなんて、わけの分からない話を始めたのかもしれない。
 本当は、ラジオの話だった。