血のしたたる数字

……一言で言えば、考えられている単位と、考えられた後に立てられる単位とは区別しなければならない。……(中略)……しかし、数が完成状態で考察されるや否や、それは客観視される。そして、まさにこの故に、その場合、数は無限に分割可能なものとして現れるのである。……(中略)……なぜなら、こうしたさまざまな分解は、他の無数の分解と同じように、たとえ現実化されてはいなくても、そのイメージのうちにすでに明白に見てとれるからである。

ベルクソン『時間と自由』岩波文庫、102-103p.)

 数を、数としてではなく、数の成立した(発明された)時間からとらえると、最初は単に自然数であり、それから整数になり、やがて有理数となった。われわれの日常に、さりげなく出てくる数字も、まず有理数として(「3」を考える時に、まず1/3が9個集まって3となる、というような)頭に浮かぶのではなく、自然数として、それを構成する「1」は分割不能なものとして思い浮かべる、というようなことを言っている。
 それを踏まえた上で最後の文は、裏返すと、何かを分解するということは、イメージにおいて特に自然に行われることである(そこでは明白なことのように思われる)、ということのようだ。
 人は実際に人またはウシの分解に裏切られる。そのグロさが現実だという、自分に向けられたと感じている裏切りをそのまま他者にベッタリ塗りつけるような宣言は、逆にいうと、人またはウシの分解において、そこに想定していたイメージ(ってナニ?)とそこにある映像との間に激しい乖離があるということを示しているようだ。
 数字は、考案されてからこのかた、イメージの中にしか存在しなかった。ここでも、イメージの中での分解と、現実における分解に乖離が生じるのだろうか。