銭湯その他

 酔っている人の話を読んで、ふとトイレに行き、そのトイレに流されていない小便が残っていた。それを自分が酔ってここにしたのを忘れたのではないかと、自分が酔っているときでさえやらかさない失見当識を疑うこれは何だ。
 喫茶店にいる。

 例によって、このあたりは道の上下が激しく、自転車を走らせるのに苦労する。ふと胸の奥が苦しくなり、見た目には大してわからない坂道を押して歩いている自分を発見する。
 赤塚の町に植物園なんぞがあったのか。自転車置き場はこちらに、という看板の先を探したが、一回りしても見つからず人家ばかりがある。仕方なく、門の右側に寄せるようにして立てておいた。
 一歩中にはいると、それとして植えているようでないものも構わず、ありとある植物に看板がさしてあり、繁茂するあまり隣と境がなくどちらのことを指しているのかわからないものまであった。蠅か蜂の羽音が、見えない場所に線を描いた。
 梛。黒い幹をまっすぐ伸ばし、一昔前の電子チップのような幾何学的に湾曲する枝分かれがある。
 一つ一つの名前を読んでいくと、デタラメな単語そのままのような名前があり、それはその植物の名前というよりも、何かの物語を掠めた記念碑のようなものとして見える、というか読める。見ることがそのまま読む。かつて読んだものをそのままそこに見る。
 つまり、植物全体の系があり、それを一つ一つ全く別の体系を持った言葉がラベリングし彩っていく、というものでは植物の名付けはなく、名付けることによって、言葉の世界がゆがみ、むしろ言葉を内から膨らませるような作用があり、それと同時に名付けることも進む。最終的には、互いが互いの体系を飲み込む形に成長し、……終わることがない。ほんとは、全ての言葉にされたものと言葉の間にはそういう関係があるはずだ。
 桜。園芸用品種。太郎。
 そこを出ると、もう14:30だった。

 古井由吉の、PVのような風景。
 どう読んでも新しく清新だ。

 鮭とばを食べ過ぎたことによって、アゴがとても痛くなった。次の次の日まで続いた。続いたというのは、ずっと痛かったわけではなく、少し使いすぎると、久しく感じていなかった種類の痛みがまた蘇ってくる。いったん収まっても、痛みが伏在しているから、少しのきっかけで戻ってくるという感じ。

 銭湯でのこと。
「低温風呂」の中には、ずっと小顔マッサージみたいのをしている男や、髪を髷みたいにゴムで留めなければならない長髪の男がいた。
 信じられないくらい下っ腹の出たおじさんが、股間に勢いよく上がり湯を掛ける。
 超音波によって細かい気泡を発生させる風呂は、しばらく入っていると、その超音波が聞こえないにしろ体に感じられて、それはガラスを爪で「ギー」とやった時の、それほどではないにしろ不快な感じを覚えるので、すぐに上がってしまう。
 その後で、屋外にあってそれほど熱く感じられはしないが、それでも四十二度もある「王様風呂」に入るのだが、ここで薄目をあけて陶然としていると、何もかもが美しく見えてくる。光景が美しく映るのではなく、自分の心の状態が美しい。それを心の中で自分を見るようにして確認するときにそれが美しいのではなく、心それ自体が美しいものを見たときと同じ状態になるので、見るもの全てが美しい。
 ほんとは立ち上がった時に虚血性発作を起こす寸前になるまで入りたいのだが、トレーニング後ということもあって、空腹感の方に耐えられずにすぐ上がってしまった。