つかの間浮き上がる筏

 意識と無意識を氷山に例えたのはフロイトだった。いや、細かいところまでの一致は知らないけれども、水面下に拡がる巨大な塊という例えは確かにしていた。そもそも計り知れないほどの大きさの氷の塊、そこからほんの少し頭を出しているのが意識というものだ。
 あるいは大洋の流れそのものが無意識であり、それにひたすら翻弄されながら、たまさか浮かび上がる筏が意識の姿だと言ってもいいだろう。そこではプカプカと浮かび上がっているようなイメージは通用しない。
 ところで無意識は夢の世界で意識は起きている世界だと言ってもいい。やっといろんな仕事が一段落ついてちょっとしたお酒を飲んでいたらすぐに眠ってしまった。ほんのつかの間日付の変り目だけ目を覚まして、また眠ってしまうだろうがこの間のことはまたいつか思い出すということもないかもしれない。
 お酒で記憶を失くしたことは今までにはないけれども、そんな時僕は一つながりの自我などというものはまるで信用がならず浮き上がっては消滅する自分というような像を信じたがる。もともと強く酒を飲んではっきりと記憶を失なっている時間なんか作らないでも、どうしても思い出せない時空なんか今までにいっぱいあるはずだ。特に日常と変わらないと位置付けたある日のこと。それらを改めてながめてみると、今の自分とは完全に隔離されている、消滅し切った無数の自分の姿に還元されると言ってもいいのではないか。今の自分もその一人で。
 そして、そこまで言ってそれを打ち破るのはやはり文章の一貫性だ。ここにいる(ここに書いてある)僕はたしかに一貫している。