ゴッホがミストラルに抗して風景を描く為に画布と自らの身体を縛りつけたように

 今僕は映画館の座席に縄で縛りつけられている。必要な食べ物はセクシーな女性が口まで運んでくれることになっているが、さっきからトイレに行きたくて仕方がない。よりによって寅さんを見せられている。寅さんは今でこそ、親しみが湧きいざという時に名言を吐く良い人みたいな扱いになっているが、もともとはただの癇癪持ちでヤクザ一歩手前のやっかいな人間だ。「寅さん、今頃どこで何をやっているのかねえ……」と言った直後に引き戸をガラっと開けて戻って来るというのが定番だがその時の家族の顔は一様に歓迎する顔、ではない。針金によって押し開かれているまぶたにセクシーな女性が生理食塩水を差しに来る。




 朝目が覚めると外から聞き慣れないエンジン音がしていた。二階の窓から見ると家の前駐車場ではない袋小路の道路のど真ん中に白いワゴン車が停まっていた。たださえ普段からここは袋小路だから、お隣の車とこちらの車とどっちが先に入るか、どちらも車庫に入っていれば問題は全くないが何かの拍子に手前に停めてしまうとそれより奥にどの車も入れなくなってしまったりしてもめていたのだ。それをこんなところに停めて、白いワゴン車はうちのでもなければお隣さんのでもなく、中に筒状に丸められたシート様のものやら、大小様々の工具やら、工具と同じように工員やらが転がっている。すぐに玄関に向かい、奴らがうちに入れるように入り口のカギを開けた。それを見はからったように工員がなだれ込んで来た。




 喫茶店で向かい合って座っている人が私に向かって熱心に話している。これだけ熱心に話している相手には相槌を打たなければならない。目の前のコーヒーカップを持とうとして、スプーンの位置が若干ずれていることに気がついた。そっと直したつもりが何の拍子か、カップの座りの悪さとソーサーの傾きによってガチャガチャ言って堪らない。きっとそれぞれが寄せ集めなんだろう。何だかわからないけれども熱心に話している相手の邪魔をしてはならないと、一刻も早くこのスプーンを元の位置に戻そうとするが一向にらちが明かないのでしまいには相手のカップの、なみなみとコーヒーをたたえたカップの中に放りこんでしまった。




 超食虫植物ネクトペントス。枯れ果てねじくれた灰色のサボテンのような姿を夕陽の差す野に曝していた。あれでも生きているのだ。まだ喰い足りないと見えて、その中心に存在する生きた肉の塊を蠕動させ続けていた。
 やがて陽が暮れて完全な静寂が訪れた。半径二キロ内のありとある生物は、この超食虫植物ネクトペントスに喰い尽くされた。半日でこの荒野は数百のネクトペントスの個体のみとなり、残りの半日で最後の一匹となるまで共喰いをし続けた。




 うちの風呂場が改築をはじめたので、その間だけ近所の銭湯を使うことになった。スーパー銭湯とはいえ銭湯には変わりがないので、気さくなおじさんがすぐに私に話しかけて来るかもしれない。「くつろぎ場」でテレビを見ていたら、コーヒー牛乳を買ってきたおじさんがドスンと横に座り、フタを開けがてら私に話しかけて来た。
 テレビでは「ボンビーガール」という番組がやっていた。「ボンビーガール」とは業界用語風に引っくり返した「ビンボーな女の子」のことで、極貧生活を送っている素人の女性を特集している。素人の女性が出て来る前に、ゲストとして「ボンビー」な生活を送っていたある芸人が登場する。
 芸人が誰だかはまず伏せられている。バイト代480円で働かされていて、その飲食店で自作のソースを作りそれが大ウケ。その後芸人パブ的なところで働くが、そこでは顔にパイを投げられる度に百円が直にポッケに入ってくる。中には「祝儀入り」のパイもあって、それを横取りしたようなこともあった。
「みなさん、誰だと思います?」「えーわからない」「みなさん一緒に働いたことがあるはずですよ」「えー誰!?」
 ゲストは石塚英彦だった。
「みなさん、お腹が空きすぎて死にそうになったこと、ありませんか?」ドッ「そんな時厨房の陰に隠れてまかないを食ってたようなこともあったんですけど、そこに店長が通りかかって。
 でも店長は優しいから、笑顔で『ウン、ウン』うなづいてるだけなんですよ。
 あの店長の元でなかったら、時給480円でなんて働いてられなかったですね」
 次に本篇に当たる、「ボンビーガール」が紹介された。レポーターはDAIGO。「え? これ尺稼げる自信ないっスよ」「ADにこんな寄りかかられたこと、一度もないですよ」等、テレビの内輪ネタを言う。
 その「ボンビーガール」は広さ1.5帖の部屋に暮らしている。背は低めだから一応足を伸ばして寝ることも出来る。食費を浮かせるために、市販の納豆を大豆と混ぜて自家製納豆を、えんえんと増殖させたり豆腐を干して高野豆腐を作ったりしている。
 ここからが本題だが彼女は部屋の奥行きをより広く見せる為に、壁に絵を描いている。彼女がイメージしたのはおそらくホテルの廊下だろう、赤じゅうたんが続く両脇にドアが等間隔で並んでいる。DAIGOは「あー、この向こう側の扉、開かないですね」なんて言ってみせるがこれはカフカの「城」の後半の光景に酷似している。もっともどうやってもイメージ化出来ないのがカフカの小説なんだけれども、「城」の内部に入ったとき、官吏が寝泊まりしている部屋がちょうどこんな風だった。くそみたいなテレビでも見続けるものだな、フランクなおじさんが話しかけるようなことは結局起こらなかったけれども。この日は自転車で家から多摩湖まで行って、帰りに池袋に寄ってジュンク堂で、カフカの手稿をまとめた本を買ったところだった。どうしてもカフカを読まなければならないと思わなかったら、多摩湖まで行ってゴムのようになった足をさらに動かして池袋に行くようなことはなかっただろう。それはきのうのことで、その日はまだカフカの誕生日が今日だったなんてことは本当に知らなかった。