疲れたので抛棄

 蝉時雨しなきゃ、休日出勤を飲んで爆睡してるところに掛かってきたから、ソッコーでかけるのはずるいですね。
 予測変換を出してみた。
 休日出勤をしたのは昨日で、別段蝉時雨しなきゃいけないということはなかった。また、飲んで爆睡してるところに掛かってきた、という事実も特になかった。
 最近、冗談とか素敵抜きで毎日が特別な日になっていて、仕事に出る度に何かしら普段やらない何かをしている。
 仕事をはじめて八月が経とうとしているこの頃に、なぜ急にそんな時期が訪れたのか、そもそも僕は物事に過剰な(つまり今では普通とされている)新しさというのは求めないので、「仕事をするに当たって、常に真新しい気持ちで」なんて、二日でくじけそうな神経質な目標を立てたりする事はないけど、過剰に求めないことでかえって向こうからやって来た、という「果報は寝て待て」的な言い回しも出来るけれども、僕はもう少し「古い」「新しい」「慣れる」「慣れてない」ということに関して、しっかりとした考えを抱いているつもりです。
「仕事をするに当たって、常に真新しい気持ちで」なんて、中年サラリーマンが後輩にいいそうな言葉であるけれど、それは中年サラリーマンが新人の頃を美化して言ってるだけで、思ったように体が動かない、全てに対して申し訳なく思う、どの方面にも無力感を抱いている、というこの全てが混ざったある感触をごっそり忘却することによって、気軽にそう言い放てるに過ぎない。
 つまりここで言う中年サラリーマンは、自らの心がどう成長してきたかに対して、針を立ててほじくるように繊細な精査が出来なくなっている。
 これはいったい何による磨耗なのか、それはもうおおよそ見当のつくことだけれども、ふつうの人でも勘違いしがちなのは、新しいとか、慣れてないとかいうことは、いわゆるまっさらな、プレーンな状態とはまったく違うか、むしろ逆だといってもいい。
 そのまっさらな、プレーンな存在として典型的なものは子供だけれども、その存在がいかに馴致しがたいか、また謂われのない妄想に取り巻かれているか、獣とも狂人ともつかない何かをもっているか、よく観察するといい。
 その無秩序な状態に、秩序という異物を打ち付ける。そのとき、その秩序内から眺めて、その存在は起点であり純化されているものだということになってるから、そう見えるのであって、……