イカ娘元日

 最近、マンガの「イカ娘」にハマってる。
 僕は四日前に起こったことなどもう忘れている。
 もとはといえば、元アニメーターで仕事の先輩という人がいて、その人がロッカーに「イカ娘」のフラットなフィギュア? と言えばいいのか何と言えばいいのか、フィギュアといったら精巧であれ粗末であれ立体のことを指すけれども、それはただイラストをはりつけただけの、黒い柔い板(の切り抜き)みたいになっている。
 ところでその意味でのフィギュア(立体と、3Dであると認識しているもの)も、基を正せば平面の組み合わせで出来ている。この「基」というのはダビデ像からはじまる西洋彫刻のことだ。そのしょうこに、それを見るべき正面からの眺めと、横からの眺めが、それぞれ計算されている。
 それに対して黒人の彫刻は、そういう風には出来ていず、真に立体と言えるような、それでしか現せないような形になっている。それはある複数の平面の組み合わせを立体だと勘違いしている西洋の美術の見方からすれば、「矛盾」を体現しているようなものに感じる。それは「クラインの壺」に近いかもしれない。あれは四次元としては存在出来るけれども、三次元に直そうとすると「矛盾」している。
 その意味で、一つの平面か、いくつかの平面に集約することの出来ない黒人彫刻は言うに言われぬ「矛盾」であり、白人もしくはそれが生み出した文化のクラスターはそれを「プリミティフ」な彫刻であるとか、正統な美術の流れには位置しないとかいって排斥するわけだけれども、別にその意味ではなくいくつかの平面に集約出来るものを立体と呼び、ひとつの影みたいになっているものを平面と呼ぶその呼び方で言えば、そのイカ娘のフィギュアは平面だった。
 それをその先輩はロッカーのキーのキーホルダーにしていて、いつも自分が着替える時に目に入っていた。それである時その人に「そのフィギュア、くれませんか?」と冗談のつもりである飲みの席で言ったら、それは何かのおまけについてくるものらしく、カブっているものをすぐにくれた。
 別にその人に話しかけたいけれども特に話題がなくなったので、冗談のつもりで言ったものが、結果、まるで自分がねだったもののようになったにも関わらず、僕はイカ娘のことをその時はアニメも漫画も含めてまるで知らなかった。まる一月か、それ以上前のことだ。
 それをある時、マンガもアニメもまるで見ていない今の息抜きのない現状を鑑みて、「あれなんじゃないか」と衝動的に手に取ったのが、「イカ娘」のマンガだった。
 ……「衝動的に」とは言ったものの、イカ娘を手に取る理由は、もう一つくらいあった。しかしこのことは、今は伏せておく。
 それで、その手に取ったイカ娘にハマってしまって、もう身動きが取れないくらいになった。一巻を読み終わった初日は、仕事だったけれども、その仕事の力を抜いた瞬間に、まるでフラッシュバックのように、イカ娘というよりもイカと潮の香りが、仕事の文脈と関係なく眼前にチラついたものだった。
 そういえば、何かに深くハマってしまうとこうなるから、アニメやら漫画やらから離れていたのだという気もする。
 ところで、今そうなってはいるけど、その「イカ娘」を実際に手に取ったその日が今はわからなくなった。一巻と二巻をまとめてその時は買ったんだけれども、一体どの店で、その日はどういう行動の流れでそれを買ったのだかもわからなくなった。
 それでツイッターのログを見ていたら、どうやら四日前の20日に買ったらしい。その日は休みでCDも6枚か7枚くらい買って、安月給の僕は破産するんじゃないかと思った日だった。
 爆発的に感情を左右するその前のことは、ただ点のようにしか感じられない。そうじゃないだろうか。キリストはその教義で全世界を覆ったけれども、そのキリストが本当に存在した当の時代には、別にその人はないがしろにされていて見向きもされてなかった。だからこそ政府当局は彼をハリツケになんか出来たんだし、それを何とも思っていなかった。今でこそそれは復活の予兆であるし、全世界の人間の罪を負った受難であるけれども、その時はただ単に「処刑」であったに違いない。もちろん、「福音書」が史実として本当に正しければ、だけれども。
 それと全く同じように、僕も僕の感情をこうも左右する前の「イカ娘」を買った時の印象は、ただ単に「よくわからないコミックを買った」というに過ぎなかった。