吉田健一『英国の文学』

またそれはその社会的な地位が十人十色であるのみならず、一人ずつ違った人間であり、その描写にチョオサアの人生上の経験と人間に対する好奇心を生んだ寛容な精神がまたとない仕事場を与えられて、そこに我々は、曾《かつ》ては暗黒の時代と呼ばれていたのと凡そ掛け離れた中世紀があるのを見る。(23ページ)

マロリイはその経緯や、トリスタンとイソルデの恋を描くことで、彼が生きていた時代の人間が薄情になったことを諷刺しているのであるがそれにしても、ランセロットが同時に宮女の一人のイレインという女と恋仲になり、グイネヴィアに現場を押えられて、グイネヴィアとイレインの間に行われる言葉のやり取りなどは、伝奇的な物語の域を越えて我々を動かさずにはいない。また、ある騎士は過って自分の恋人の首を刎ね、グイネヴィアが司会する恋愛査問会(court of love)に罪滅しにその恋人の首を自分の首に縛り付けて、ロオマまで教皇の赦しを乞いに行くことを命じられる。そしてこのように、何か素朴な酷《むごた》らしさが他のことにまで現実味を与えている例はこの物語の至る所にあって、こうして人が切られれば血が流れるのが感じられ、それは生血である。(32ページ)

 pomera でタイピングしていると、右手の甲というか中というか中指と薬指の間から延長した手の中の筋がとても痛くなるようになった。もともと pomera を打ち慣れるほど打ってなかったというのもあるが、家で打ってる時にはあるはずのリストレストがないのが大きい。基本的にタイピングというのはキーボードに対して手首が直に同じ高さにあると、はなはだしく手の甲の筋肉に負荷がかかる。指はピアノの中もそうだが原理的に手首からまっすぐ伸ばす以上に上に引っ張ることは出来ない。出来るけれども無理のある行為だ。玉子を握るように丸めてからハンマーのように降ろすのが一番無理がない。タイピングが一番早い人々はたいていピアノを弾いていた経験がある。ピアノを弾く時は腕を浮かしているがタイピングの時に浮かしているのは疲れるのでその為のリストレストだ。じゃあ pomera は持ち歩くのが利点であるからってリストレストも持ち歩くのか?

自分を客観するということと、自分を認識するということには隔たりがあるんです。あるいは、自分を客観するということは、自分がどうなっているかということをきちんと認識し、それに従って行為することとはまた別なんですね。客観すれば客観するほど、その人間の行為が崩壊する。行為の中でつかまれる自分の認識っていうものが薄れてゆく。

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