高島平の団地

 17280歩歩いた。
 赤塚の、名も知れない通りを右に左に、そこから赤塚植物園、板橋区立美術館を抜け、大宮バイパス(?)を通り荒川を渡り、笹目橋を越えた町でローソンに入りアイスを買う。そこから、ほぼ同じ道で帰ってくる。
 人から見たら全くの徒労だ。
 板橋区立美術館には、壁にびっしり、誰かの詩か童話か小説か、そんなものが書かれている。
 書く、描く、とあるが、あの壁面においては書くの方がふさわしくなく、ふさわしく、ふさわしくない。

 笹目橋の上で、何も聞かずに歩いているのに耐えられなくなって、ラジオを付けたが、よりにもよってそこでやっていたのは「トップ5」だった。
 宣伝で充分嫌いになっていたが、本編を聞いて、そこに短く表現されていた空気が遍く充満し繰り延べられていたので、ますます嫌いになった。ただ、職場のYさんともあろう人が推すのだから、何かそこには理由があるに違いないと、いらないフォローを頭の中で考えた。
 たとえば、数年前のトップ5は、まだ今のようにいけ好かない空気を発してはいなかったが、時代の流れにあわせて、そういうプロデューサーが就任し、空気ががらりと変わった、とか……。
 内輪の空気をそれとして肯定する雰囲気(佐々木中風に言えばお座敷芸)が、それこそいい風に発展するときもあるのに、それがこうも臭味に変じるのはいかなる所業だろうか。

 笹目橋を越えてしばらくは、川沿いの工場が続く。なんで川沿いは決まって工場や荷物置き場などで埋め尽くされているのか。知らないけれども自分の見たい風景とは違う。違うということも無いけど、どこか生活感がない。と思ってもう少し進むと、ちゃんとマンションや住宅街があるのだが、その中の人のほとんどが、家を出たらそのまま目の前のやはり工場や荷物置き場に直行しそこで仕事をするのだと考えると、同じくどこか生活感がないと感じる。
 ここで言う、生活感とは何だ? ふつうの意味で言えば、ここでだって生活と呼べる営みがあるはずだ。ただ、そこには多様性がない(全て想像の中だけど)。たとえば一つ隣の人が、家を出たら次にはどこへ行くか、なにしに行くのかが全く予想がつかないというような、そんな不可解さに欠けていると言えばいいんだろうか。しかし、その不可解さだけではない。
 単に学校が欠けていると言えばいいんだろうか。学校があったとしても、ほかの福祉施設が全てとは言わないまでもある程度揃っているという。本当は、あそこにもあったかもしれないが、工場のまっただ中という土地には、確実にないだろう。それが周りにまである程度浸出しているという感じ。
 または世代の多様性がない。ここに壮年の男性だけでなく、主婦や子供が息づいているという感触。
 奇しくもここに差し掛かったときに、Iラジオのネタが、「お年寄りの特区があればいい」という話題だった。

 マンションを建てて、その一階部分をコンビニにすることで、とりあえずそこに住まう人々のインフラを確保しましたとでも言いたげなそのたたずまい、その浅ましさ。

 万歩計を買ったのは、言うまでもなく柴崎友香のツイートの影響だが、それ以前に幼年期の思い出がある。
 ある日万歩計を僕がどうしても欲しがったので、親が買ってくれた。それは父親の趣味でなぜか金色のネクタイピン型の万歩計だったのだが、それを一目見た時なぜか自分は「これは万歩計ではなかった」と決めつけ、泣き暮れた。すぐあとにやっぱりこれは万歩計であったと言い含められて、幼いながら恥を覚えた。
 未だに「万歩計」という言葉の響きからは、その語義は入ってこず、未知のあこがれを抱く道具という雰囲気を漂わせている、なんだこのつまらないエッセイは。

 ああ、権威主義を匂わせる小説家のエッセイは無条件に貶されてしかるべきだよ。

 笹目橋から振り返り高島平の団地を見れば、まるで冗談みたいに整然と並ぶマンションの玄関の灯がLEDの電飾のようだ。
 それはなお悪い冗談のうちにあるのかもしれない。