十五日

 たとえばもし読書家が、自分の好きな本を独自の分類で棚に並べたような小さい図書館を庭先に作ったとしたら、道を行く人は立ち止まるだろう。日頃からそんなことを考えていた僕は、まさにそれと同じ発想のものに出くわしたのだった。(坂口恭平「TOKYO一坪遺産」52ページ)

 絵なら、フリーハンドでまっすぐな線を書けること。ダンスなら、勢いを一瞬で止め、ピタッと動かなくなる能力。体質にも似た、基礎的な才能。
 ポメラは、そのうち注目されてもいいと思う。発想がミニマルだ。

 リアリティーについて。高橋源一郎はじめ、古井由吉岡田利規カフカなどが、現実を基礎に据えて書かない。ただ、リアリティーは現実とは別にある。というか、現実に寄せて表現しようとか、言葉を現実に限りなく近づけようとするそのやり方と別にあるということで、リアリティーは寄せることではない。でも、それでは現実はどのように反映されているのか。
ペンギン村に陽は落ちて」だったら、基礎がすべてマンガにある(もしくは小説にある)が、それは人の間を縫うように成長した幻想なのだろうか。それとも、マンガがあるという事実なのだろうか。
 ただ、その幻想としたところで、そこにはまた法則があり、運動があり、御しきれない何かがある。

 全ての細部に山本さんの夢が詰め込まれている。僕には本物よりも本物らしく見えてきたのである。一体本物とは何なのであろうか。(同、114ページ)

 写真のツブツブから逃れることはできない。それを無理に誇張することも、それが人間にわからないくらい細かくしていくことも(実は不可能なんだけど)できるが、そうではなく、ある程度限界を設けて、それをその範囲として満足し、そこからの現出の方に(現出の解像度というものがあればそれに)従って、それを楽しみ、作り出すという写真の撮り方もある。
 実際、拡大していけばいずれアラが出るのだし、現在における限界までの技術を以てしても、ちょっと目を近づけたらツブツブが見えるんだから。
 ファミコンゲームのフォントを、(この文脈ではついにこう言い表すしかないが)露悪的に示してデザインに使うことも、できるが、そうして一時代を退けるその自分自身もまた、妙な時代に属しているということを忘れてしまう。ファミコンと同じようにツブツブが目立たない、あらゆる種類の画面を、結局一回も見ていないのだから。
 とすれば、ツブツブになることはあきらめて、それをコミでデザインをするしかないだろう。分解能が優れ鮮やかに見えるというそこに信を置いてはいけないのだ。

 僕は読書家ではないが、本という形式には常に魅《ひ》かれていた。紙の上に印刷されているのはただの文字なのだが、文字の配列を読むだけで頭の中に風景が立体的に浮かび上がってくるということが衝撃であった。むしろその中に書かれている内容は僕にはどうでもいいのであった。
 幼い頃、たくさんの作家の作品が集まり、さらにそれが編集され、一冊の雑誌というものが生まれることに興味を抱いた。漫画雑誌などを見ては、それを模倣したくなり、ついには漫画家と称し、自分で漫画を描いた。持続して連載形式にして、たまってくるとそれらをホッチキス留めして、背中に糊《のり》をつけ、厚紙で制作した表紙に貼り付け、自分だけの雑誌を作り上げてはほくそ笑んだりしていた。
 そういう嗜好《しこう》は、最近でもずっと続いていて、自分で撮った写真、書いた原稿を出力し、カラーコピーし、それをケント紙に貼り、一冊しか無い豪華ハードカバー本などを作ったりしていた。それが、今の自分の仕事の原点でもある。本作りは一つの物質の中に目に見えない思考を閉じ込めてみたいという欲望からきていた。(同、126ページ)

(豆本の話)もともとは、デジタルの技術もこういう精神から開発されていたのではないか。あらゆる書物がこの一つのチップの中に入っている。モデル化された、一つの空間がこの中に……。
 しかし、いつからかそのマジックの精神はなくなり、どこか実用的な世界になり果てた。たとえば、3DCGのゲームのような世界でも、それがさらに無数にあり、それぞれをめまぐるしいスピードで入れ替わるという、めまいのするような演出があってもおかしくはないのに、それはあまり現実の感覚とかけ離れているから、まるで家の扉を開くように、AからBの空間へ静かに移動し、またBからAに戻るというような空間から、展開しようとしなくなった。
 飛浩隆「廃園の天使」シリーズに出てくる、数値海岸《コスタ・デル・ヌメロ》を現実のコンピュータ内に再現してみるという演出が、CGで行われたりしていたが、実用的でないからと、そういうものは廃れていってしまう。ここでいう実用的というのは、お金に回収できるかということであり、できるなら技術を占有しようということだ。プラモデルを作るように手軽に3DCGを作っていた時代もあったが、妙に技術の煩雑化と進歩が重なり、数年とか単位で勉強して、見た目にそれと見えるだけのCGを作る訓練を受けられさせる。
 見た目の問題なんて、実は小手先で調整されている時がある。最終的にフォトショップで編集するように、リアルに見せるのだ。それはもはやある一つのカメラからの見え方の問題であり、空間そのもののあり方にアクセスする方法とは全然違う。