書くことは気晴らしになる

 恥だがやるしかない。理性こそが私なのかそれとも衝動こそが私なのか。もうかれこれ何ヶ月も水を変えずに放って置いている鞠藻がキーボードの横にあるけれども今だに青々としている。鞠藻は死ぬと茶色になるというからこれはまだ生きているらしい。鞠のように固まるがこれは無数の個体が集合してこうなるのであって一つの個体は紐のようでしかなくその一本一本が別の夢を見ている。夢を濁らせてはいけない。触ると固い針のようにチクチクとする。手の平で洗えというが鞠藻がつぶれないように転がしたくらいで洗ったことになるのか。せっけんで洗ったら死ぬ。お湯に浸したら死ぬ。凍らせたら……阿寒湖の底で静かに育つくらいだから冷たさには強い。鍾乳洞と同じ論法で生長するのは何十年もかけて数十センチだけ、などとまことしやかに語られるがじっさいにはたった数ヶ月でそれくらいの大きさになる。すれ違う人に「あれ、Pさん、背が伸びたね?」などと言われていったいどんな社交辞令なのか、背が伸びて喜ぶのは高校生までだ成長期を過ぎたらもうそんなことはあるまい、と思っていたら健診で実際に伸びていた。微々たるものだ。