横浜に行った

 今年からか? しらないけれどもいつの間にか副都心線が横浜やみなとみらいまで延長されていた。正確には渋谷から先は東急東横線で、東急東横線は地上に出たり地下に潜ったりする。丸の内線なんかも地上に出たり地下に潜ったりするけれどもそういうのに乗ってるとなんとなく落ちつかない。東急東横線の場合は小高い山の表面を多面体のように住宅が張りついているのが一望出来たりしてそれはそれで良い。そのさまは野生の金属結晶のように統一感がない。人に造られたものは統一感のあるものより統一感のないものの方が迫力がある。
 横浜駅で降りるとひたすら林立する高層ビルしかない。片側に坂の多い雑然とした住宅群のけはいを感じ、片側に壺のように人工岸に限られた海のけはいを感じながらみなとみらい大通りをひた歩いている頃にはもう日が暮れかかっていた。みなとみらいそれ自体に入れば、人の熱れが充満してるのだろうけれども少し外れるとその道は自動車が通り抜けることしか前提してない。歩いても歩いても見えるのはビルだけでそれが正確に刻々と角度を変えていく。これは散歩じゃなくて3Dモデリングのシークバーになりきる行為だ。みなとみらいに辿りつくのは諦めて道を右に逸れた。桜木町駅のあたりだった。
 この辺りは飲み屋が充実していた。たった数年前なら考えられない発想だけれども一杯引っかけてから帰ろう。とは言えその一杯が文字通りの一杯なんだから臆病なのは変わっていない。界隈を三巡してからラーメン屋に入った。一巡しないで店に入れる人を尊敬と軽蔑の半々折り混じった目で僕は見る。軽蔑というのは語が強すぎた「のん気だな」という感じ。「尊敬」が二字の熟語であるためもう片方も二字である必要が生じて軽蔑などと言ってしまった。尊敬とのん気だなの半々折り混じった目と言ってもここがどうも引っかかって先に進めないという感じがしないか? のん気の「のん」は「暢」と書き申すに陽のつくりを書く。申は空に雷電がひらめく形で陽のつくりは玉を置いた台から下に光がひろがる形だそうだ。その会意で光り輝くさまを言う。それがどうして気分伸びやかに過ごす性格や人を指すことになったのかは知らないけれどもラーメン屋に入ったらテレビで笑点がやっていてしかもジャストで大喜利がはじまるところだった。時計が五時四十五分をさしていたのは入店前にはっきり見ていたのにそれが笑点の時間と頭の中でリンクしていなかった。「そうか、日曜日の五時四十五分はちょうど笑点が大喜利に差しかかる時間か」と変に納得した。ラーメンというより飲みが中心の店だからラーメン自体の味にはさほど期待はしてなかった。突き出しの菜っ葉のおひたしと焼酎がとどいた。焼酎ってうちでも誰かと飲み屋に入った時にもほとんど飲まないけれどもたまに飲むとうまい。ロックで頼んだら氷の形がいわゆる「穴ポコのあいた四角氷」だったのは興醒めしたけどライムスターも歌っている。「目指すは永遠(とわ)に届かぬ100% ちょうどいい」。

 木久扇のわかりやすいボケをたっぷり堪能できる時間が経ってからラーメンが届く(ちょうどいい)。「おカミは軽く無愛想 付かず離れず絶妙な接客」。隣のカップル客は大盛を頼んでいる。自分はチャーシュー麺の普通盛りにノリのトッピング。最近はラーメンのトッピングはノリだ。あの平面がスープでぼやけることによって生み出される量感は見た目を裏切る。ただ麺が少なかったのとチャーシューはまるでツナのような食感だった。笑点はまたぞろどこか徳島だかどっかに遠征していて、その土地ならではの大喜利が行なわれる。三遊亭円楽林家たい平山田隆夫に蹴り飛ばされる。三遊亭小遊三は最近は残尿感キャラもやり出していたのか。ここに来る前池袋で買ったマンガを開く。さてここからがこの記事の本題だ。
 前から気になっていた「大好きが虫はタダシくんの」というマンガ。僕は狂気とは付き合いが長くサイケデリックから恐怖から反復からいろいろ見てきたけれどもこの人(作者の阿部共実)はほんものでレベルが違う。狂気とはある方に振り切れることではなく(そういうこともあるけど)どこかズレることだ。性的な狂気はたいてい振り切れるように見せる/思われるけれどもそもそも性的なものは狂気ではない(と僕は思う)。フロイトを引くまでもなく男性が女性を女性が男性を選ぶというこの対象選択が行われること自体に重層的重層的に社会的な歴史的な多層が加わって挟まっている。人間が育っていく過程で本当は違うけれども進化を辿るがごとく描写されることがある違うけれども。それで言えば男性が女性を女性が男性を選ぶというこの対象選択が行われるのは層重多重層のけっこう層重れた後のことだ。だから男性が女性に暴行拉致監禁なんでも性的逸脱と見做される行為をはたらくのは狂気で未熟だといわゆる言われるけれども人間の多層的手前にはもっと未熟で狂気がある。簡単に言えば単にタガが外れることは面白い狂気ではない。まだ性的な例えに固執するとすれば男性が男性を女性が女性を選ぶ対象選択は狂気だと思われているけれども狂気が正気からの接続を断たれたともし表現するならば、その接合部分をヤスリか何かでニスか何かですでにふさいでいる狂気とそうでない狂気がある。もぎたての生木からは痛みなどわかりやすい叫びではなく「あれ? 何かが違う」という声が聞こえる。「あれ? 何かが違う」は弱いように見えて今現実に自分があるというしっかりした実感をおびやかす十分な力がそなわっている。逆に言えば痛みへの叫びでも激しい苦しみでも恨みでも何でもそこには確かにあるという実感がともなう。もはや狂気か狂気でないかは問題じゃない。不思議と悪酔いしない味だ。
 テレビはいつの間にかバンキシャ! に変わっていてラーメンはいつの間にか食べられていてお腹がすいた。家のようにリラックスしていたけれどもここは家ではない。しかも近所ですらない横浜だ。暴風雨のニュースを見ていたらおカミがガチャガチャとチャンネルを変えてからまたバンキシャ! に戻した。追加で草れんそうベーコンを頼んでから店を出た。日の沈んだ方だけがわずかに紫であとは青だった。