高気圧だからと言って油断は出来ない

 いつものようにドトールで本を読んでから職場のミーティングへ顔を出す。休みのうち二時間(うち実働が一時間半のカウントでそれだけ休日出勤の扱いになる)が仕事に持ってかれるのはわりと大きい。時間の比で言うよりも予定の時間が刻々と迫る感覚を休みなのに持っていなければならないのがツラい。なので時間軸を徐々に過去へスライドしていって読書であった時間に耽る。耽り直す。職場のミーティングに行くまでの自転車の道のりでは、結局降り出しはしなかったものの、ずいぶんぶ厚くなった雲が太陽の光を放射状に透けさしていたけれども時間を巻き戻してまだドトールにいた時分は雲はそんなに分厚くなかったんじゃないか、そんなによく見てなかったけれども。通底して風は強かった。今日読んだ本は、中井久夫の「アリアドネからの糸」と、ヘーゲルの「精神現象学」と、……だけだった。最近本当にショックを受けた阿部共実のマンガを大人買いしてそれは止まらなかった。大人買いと言っても新人作家だから可愛いものだ。阿部共実を読んでからヘーゲルを読むとヘーゲルが狂いはじめた人の言説に見えてくる。別にそれが価値の急落とはもはや思わない。一般の人はそう思うんだろうかヘーゲルが仮に哲学者だったらそれはイコンになり狂人だったら価値の反対側に追いやるという。一般の人にいちいち合わせていたらきりがない。神学校くずれのヘーゲルのことをイコン扱いしたのは一瞬の思いつきとはいえわれながら良いたとえだ。哲学者をその書の線を追わずただ金言としてあがめたりするのは本当は聖人それ自体をあがめなければならないところを顔写真を見てハァハァする神学者と同じ態度だ。なんて言い草だ。ところでヘーゲルの狂人としてのヘーゲルに話を戻すと僕にとっては狂人であり哲学者であるヘーゲルなんて像は言わずもがなで、そもそも理性というのがどこか狂っている。西洋がそれをシステムとして押しつける拡張(し続ける)国家が狂っていないとどこをどう見たら言える? ヘーゲルがさらに発展してハイデガーになったらいよいよ狂う。でもそれはドイツ民族がナチ国家に本格的に没入する前のあがりはなであるからハイデガーはまだ狂っていないから哲人としてまだ価値を持っているというわけではない。だからもうこんなこといちいち一般人のために踏まえてるときりがない。今改めて阿部共実だ。青い喧騒のはるか上空に中井久夫はいる。中井久夫はなんでポール・ヴァレリーなのか。ポール・ヴァレリーはなんでステファヌ・マラルメなのか。ポール・ヴァレリはなんでアンドレ・ジッドなのか。ポール・ヴァレリーはなぜ今さらパスカルのパンセでダ・ヴィンチのノートなのか。阿部共実はなんでねこぢるなのか。ここでイコールで結んだ全てにいちいち適正な解説を入れるのが、本当にめんどくさくてこれだから一般の人は。