お花見に行った

今週のお題「お花見」

 やっぱり自分に向かって話を振るのはどうしてもダメだ。結局重荷になって勢いが止まってしまう。本当は、一つのことを細く書き継いでいくのにあこがれているのに、そこまで粘ることが出来ない。思い切って媒体を変えようとmixiの日記の方で書いたら面白いぐらいにスラスラと書ける。やっぱり僕にとって書くことは底の底まで物理的なことで、キーボードで入力したらそれがどんなキーボードかに左右されるし入力しているのがテキストエディターなのか、それともウェブページ上のテキストボックスなのか、それだけではなくどこに配信されていくのかすら意識されて仕方がない。これがどんなにプラセボだの気分の問題だのけなされたところでもう無意識のところでそうなっている。技術が向上したらそれでようやく人間の労苦が減らされて、より思考がスムーズにアウトプットされるなどと思っているとそれは大間違いだった。それがスムーズどころではなく、と目くじら立てるのは止すにしてもその経路はどこまで行っても関係してくる。無媒介に、などというのはありえない。桜をブラウン管からではなく液晶からではなくポスターからではなく実際に足を運んで見に行ったといったところで、それが直接ということにはならない。事は別の次元に関わってくる。すなわち、私が(その人が)今まで見てきたどの桜の絵を元にして桜を見るのか。額縁はあらゆる例えの通りに一つの穴で、まるで風景画から風が通ってくると思われるまでにそれが風景なのは作者の技量というよりも有史以前から行われてきた謎であり今も謎であり続けることがらと言った方が良く、それは理解するより前に今見ている光景を変え人を教化する。壁面に青い色を塗るとはそういうことだ。聖書以上に古い聖書と言っても良い壁画の元々の姿については、当然ながら現在に亙って喧々諤々としているけれども、あそこには青い背景があったと僕は信じてやまない。