随想

 ハンドベルの本番が終わって一段落。これでもうしばらくは、休日を返上して何かをやらされることもない。
 僕は徹底的に「読書」というスタイルに填め込まれているらしく、なんらかの映像ソースに触れる時にそれに引きずられる。つまり、どんな区切りの作品を見ていても、ある瞬間に切り上げて、別のことをはじめる。それがどんなに中途半端なところであっても、次にはそこから見はじめる。まるで本のページごとの区切りにしおりを挟むような塩梅だ。
 逆に「これからどうなってしまうのか!?」式の、「次を、次をと思わせて最後まで見させる技術」が使われている映像ソースに出会うと、嫌になって以降は見続けることはない。次を、次をなんて、そんな仕掛けを作る暇があるなら、「今」の映像に全てを賭けないか、と思ってしまう。
 言い方を変えれば、今の僕の頭の中には「展開」とか「流れ」とかいったことがスッポリ抜けている、あるいはそれが普通の人よりだんぜん薄くなっている、ということのようだ。
 さりとて、どんなに短く区切っていようと、僕にとっては「長さ」があることは重要視されている。一歩進むごとに、だんだん個々の要素が互いにそのままの姿で「震動」をはじめるような、そういう長さ。
 言い換えれば、少し進むごとにどこか本質的なところに変化がおとずれる。もしくはこっちの認識が変わっているということ。だから、同じ読む物であっても、ネットに置いてあるような文章は読む気がしない。
 あれは細かく区切られているとはいっても、それぞれが全く同列のデータを並置しているだけだから、互いが震動し出すことがない。
 また言い方を変えれば、その「区切り」というのは全くこっち側が打ちつけるもので、向こう側がどんな区切りをつけていようと関係がない、ということでもあるのかもしれない。さらに言えば、それが文章であるか、映像であるか、というのも関係がないのかもしれない。あるいは、それらの間に関係がない別の部分があるということを表現したいのかもしれない。
 受容も表現の一つであるというのが、僕の中では常識だと思っていたけれども、そういう考えに慣れてない人は、「区切りを私がつけることによって、他人が作った作品を表現する」ということを変に感じるかもしれない。
 もし受容が一つの表現となるのでなければ、どうして作品を見ることから、作品を作ることにつなげられるのか。どこか何でもいいから学校に行って、そこで魔法でも施してもらったら急に何かが作れる身体になるとでも言うんだろうか。私は見るそばから常に試されている。
 と言いつつ僕は、「受容という表現」のほとんどを許容しない。ライブに行って一緒に跳ねていたら、気持ちが一体になって表現者と通じ合えるだとかいったことは、どうしたって単純すぎて無邪気すぎて信じられない。ライブに行って一緒に跳ねることで一体感を感じる考え方と、学校に行って魔法を施してもらうことでミュージシャンになれるということはつながっている。もし専制されたシステムが、限られた数のアーティストを作るのでなかったならば、このアーティストと一緒に跳ねる人とのバランスが崩れてしまう。
 もしこの「自分は表現なんか出来ない」ということを押しつける妙なバランスとそれを正当化する幾重ものシステムから抜け出したいのなら、まず一緒に飛び跳ねるようなことをやめなければいけない。もちろん、僕が本当にそれを出来ているかどうかなんてことは、わからない。


 ハンドベルの本番から来るプレッシャーからか、というかそう周りの人みんなから言われたけれども、カゼを引いてしまった。それ以降睡眠はよく取ったつもりだったけれども、低気圧が引いてはまた押し寄せている為か、全く治る気配がない。というか、日々症状が変わってきているけれども、このカゼというもの全体から抜け出す気配が全くない。
 おとといは鼻の奥がひどく腫れて全く息が通らなくなった。その次、ということはハンドベルの当日だけれども朝から熱が出てだるくて仕方がなかった。それで今日はその熱やらだるさやらからは抜け出したけれどもノドが悪くなりつつある。
 逆に言えばカゼの方も、症状というかネタ切れしたらそれで終わるのかもしれない。あとは腹でも壊したらそれで仕舞いだろう。この症状が押し寄せてくる間、不思議なくらい腹には影響がなかった。