はるかな空想

 ボジョレーヌーボーの「ヌーボー」とはフランス語で「新しい」という意味の一般名詞だから、このように「スパークリングヌーボー」とかいっていかにもボジョレーヌーボーを連想させる単語でただの葡萄ジュースのサワーを出しても、何の文句も言われない。
 僕はこのような剽窃というか無責任な名前の簒奪がすごい嫌なんだけれども、世の中は長年言い習わしたホールの名前をそれと同等だからといって、金で売るような時代になってきた。
 ほんとはこんな話をしたかったわけじゃなかったんだけれども。


 今日はひどい雨に降られながら帰った。雨なんか誰も嫌いであるにも関わらず万人のために降る。
 今日はほんとに夏の夕立のような、質量があってボタボタした雨が万人のために降った。この雨はあらゆる排水溝から下水道を通って海に注ぐ。これはきっと見た目からわかる、大河が河口から海に注ぐ水の量よりよっぽど多いに違いない。
 見たことがある人は分かるけれども大河の海に近い河口は、対岸なんか霞んでしまって海と区別が付かない。あれの何倍もの量の水が、下水道から海に流れ込んでいる。我々は下水道をどんな扱いをしているか思い出してみよう。
 海の水は海表面から蒸発して雨になって万人の上に降り注ぐ。ダムに注いだ水が一部人間の飲料に供されあらゆる管と細胞を経過した末に腎臓に至る。
 ここの堰に辿り着いた際、そこに大量のゴミが詰まっていた。清掃員がたった一人でそれを取り除こうとしていた。彼は東急田園都市線のつくし野駅からこの職場に通っていた。タバコが好きなので、すべてのゴミを取り除いた際、マーキングのような心持ちからか、澄み切ったその水面に一つの炭を投じる。仕事仲間に会う確率は、ニュートリノが直接原子を震わせる可能性より低いけれども、それでも偶然その光景を見た同僚は、それに顔をしかめた。
「なんでそんなことをするんだ? 数え切れないくらいの赤血球の死骸をやっとのことで取り除いたばかりじゃないか」とその同僚が訝ると、彼は自分より高く生えている葦を通り抜けて輝きわたる夕日を背に、
「これは仕事で、俺はこの男が嫌いなんだ。俺も腎機能障害をかかえているからな」
と応えた。
 それからまた一人になって、二時間半の家までの帰途を辿るのだった。


 今やんなきゃいけない仕事があるけれども、ちょっと後回しにしていろんなことにひたっている。
 仕事…。今はこんなことをやるのが仕事だと思っているけれども、他の業種からしたら「そんなことが仕事になるのか」というような仕事をしている気がしてならない。いや、あらゆる仕事が、本質的にはそういうところを持っている。同業者すら言うだろう。「あの人、ほんとに仕事してるの?」と。


 前にAFXの音楽は自己解剖に等しいと言ったことがある。何もそんな残酷なものに喩えずとも、とも思うゴジンがあるかも知れないけれども、世に平然と行われている自己解剖がある。
 ピアスを開けること。
 これは単なる文学的な比喩や論理の飛躍や共通点を見つけて悦に入ることとは違う。
 ピアスを開けることは、社会に認められずにいながら社会に認められるという両義性を持っている。なんとなく風俗を乱すとか親からもらった体を……とか言われるにも関わらず、内臓を自分でほじくり出したり筋肉の筋をほどいたり結んだりすることよりも、よほど「そうであること」の地位を得ている。
 いわば、体の範囲をしぼることによって、周りに認められながら「自己解剖が出来るかどうか」を俎上に上げることに成功している。
 僕はピアスを開けている人に今だに抵抗を覚える。仕事の知り合いの人二人が、二人ともピアスを開けていると聞いてびっくりした(二人とも「今はふさがっている」)。ピアスを開ける人はいていいけれども、それが9割とかそれに近いだけ「やってなきゃおかしいこと」になっているのが、なんだか釈然としない。
 気持ち悪いと言ってもいい。気持ち悪いと釈然としないの間かもしれない。
 これを今言ったこととつなげたら、「うまく社会の俎上に上げることが出来た自己解剖を、気持ち悪いと釈然としないの間に感じている」となる。
 まがりなりにも社会の習わしとかいろんなことに慣れてきたつもりにもかかわらず、どうしてもそこに抵抗を覚えることと、自分(AFX)を一たん音楽という新しい Corpse に置き換えてから、それを容赦なく解剖、裁断するかのようなリミックス、Dis-Compose を行うことに、見てはいけないものを見たような魅力を感じることとは、僕の中で必ずつながっているはずだ。