きょうのこと

 今日は社の出し物のハンドベルの練習をやる予定だった。僕は指揮者兼練習進行指導の全権を任されていた。
 しかし総勢17人のメンバーのうち今日集まる予定の人が5人だったにも関わらず実際に来たのはたった1人だった。
 ということは、本当に5人集めるには25人に声を掛けていなければならず、メンバー全員を集めるには85人にあらかじめ、練習の声掛けをするべきだった。
 数学的に言ってそうだ。


 朝は驚くほどの寒さだった。春や夏の間中もずっと足元に転がっていた電気あんかを、深夜三時に寝ながら引き寄せてプラグを入れて抱いて寝ていた。
 秋は雨がつまり前線が通る度に寒さの度を増すと聞いたけれども、今日なんかは何にもなくて単純に温度が下がった。
 自分が冬にどれだけ苦しめられたかということを、二十五回目、再び思い出した。


 僕は今映像的なものよりテキスト的な享受の仕方を好むからイカ娘もアニメよりマンガの方が面白く感じる。
 映像というのは人間の経験により近いけれども言葉や文字はそれよか遠くなると一般には思われているけど、僕は今は全くその認識には与しない。このことは以前言葉は違うけど論じていた(鎌倉の映像)。
 僕には今は映像を使うすべての作品は、どうもその映像と自意識というか、の一致を夢見ていて、そうスムーズに行くのか、と思ってしまう。
 カメラの使い方(絵なら視点の取り方)に関する技術は膨大にある。とすれば、その数だけ実際の経験とその作品化されたものには距離があるはずだ。
 そして一般の(だからここで言うことに当てはまらない作品は好きなんだけれども)映像作品では、その技術すべては、映像→経験、の間の距離をちぢめるために使われている。
 本当に一致するはずはないのに、なぜそんなことをするのか。
 それに対してテキストは、それを自分が書いていないことははじめからはっきりしている(だからそれに当てはまらない、書いている人と読む人の同一視をまず前提にしている作品は嫌いなんだけれども)。そこからいろいろな歩き方をしてその周りを回り、たまさかその回っている中心がなんであるのか、分かりそうになるときがある。
 その瞬間を待ち望むというのが僕のテキストとの戯れ方であり、長年そうしてきたのでそれが習いになっているのだ。
 ちょっと話が逸れてきたのでイカ娘に話を戻すと、今言ったのとはちょっと話がずれる。マンガ版のイカ娘も、絵における視点の使い方というのがあるじゃないかと。
 じゃあ今言ったことは抜きにしても、僕は単純に、紙のページをめくって紙面を眺め、それを頭の中で展開するということに、長い時間を費やしすぎた。
 そう、どっちが正しいとか良いとか言いたいわけじゃなくて、単純に経験とルートの違いだ。子供の頃から電車を使うのになれている人は交通に電車を使うことしかつい思いつかず、バスばかり使っていた人はついバスで行けるルートを探してしまいがちになる。
 脳にもおなじようなルートがあって、獣道のように通い慣れた道を再び辿る。僕はもうテキストによるルートに慣れ親しんでしまって、他のルートは何か直接的でなかったり、迂遠なものに感じられたりするのだ。
 元々話したかったことからかなり離れてきてしまったのでここまで。