鎌倉の映像

 期待はしてなかったけど鎌倉駅から由比ヶ浜までの道のりを、最近買ったこのスマホのムービー機能で撮った。
 それは想像通り考え得る限り美麗を極めていて、滑らかでもあったけれども、想像通り、実際に歩いていくのとは似ても似つかない印象で埋め尽くされた。
 第一にいくら慎重にスマホを持って歩いたところでカメラは視界の何倍も揺れながら行くので、それに酔いまくるし美麗な画面はそれを倍加させる。それが手で持っているカメラだから悪いわけではなくきっと他人の視界を目に張り付けたらもっとひどく酔うだろう。
 僕が期待していたのは録画することがあの体験の再現か、悪くてもコピーになることだった。残念ながらというか予想どおりそうはならなかった。それが再現されないだけならまだいいけれども、その体験に張り付こうとするあまり度を超えた悪酔いという新しい現象がその間に割って入った。
 さらに加えてこのレベルでさえ手でカメラの視界を最低限確かにしておくのは腕の筋肉と集中力を奪われて、本来そんなことをしないでいたら楽しめた歩みまで奪われてしまった。だからといってさっきみたいに視界をそのまま再現するような仕組みが仮にあったとしてもそれはきっとうまくはいかず、まずその録画されたものがどういう流れになってどういうところに注目していくのか、意識してしまう。
 だからといって僕は映像によって何かを再現するということに文句をつけているわけではなく、そうした場合に、いくら体験に近接させようとしても、そこに必ず何かが挟まってしまうということが言いたい。
 逆に言えば、私達が「これは体験そのものだ」と思って見る映像があったとしても、そこには必ず何かの演出が働いているということでもある。
 その際、例えば今回のようなHD画質のようなことをすれば、その間に挟まる演出のようなものは量を少なくしたりするというわけではなく、むしろ甚だしくなったり思わぬことが起こったりする。
 また、その演出という言葉は、そこに何か意図があったりするわけではなく、そもそも「見えるようにする」単なる技術が大いに含まれている。大いに、といっても先ほど言ったようにそれは量の増減には還元できないし、また意図のある演出とその技術との間に、区別や曖昧な階層構造のようなものもない。
 そして、論理のちょっとした飛躍をおそれずに言えば、だから映像作品と文章による作品の間には、根本的な差はない。どちらもある迂回路を経て現実と呼び慣わしている「何か」を再現しようとしているのに違いはないし、昨日実験したように現代のトップレベルの再現技術を使ってみても、そのことによって逆に悪酔いを起こすばかりだった。