遅番の休憩室/群像の「小島信夫特集」

 はじめにそうと思い出してしまったのはいつの時点だろう。入居者の新聞の見出しに「3・11」の文字が踊っているのを見た時だったと思う。
 本日3月の11日をもって、東日本大震災の発生から丸一年が経過した。僕はその記念すべき日を完全スルー(まるで何もなかったかのように過ごす)するつもりだった。僕は信じられないくらい大事なこともすっかり忘れていることが出来るので、このことも、朝起きたらホームに行くことだけ考えて、ホームに行ったら動くことだけを考えることによって、一切触れずに済ますことも出来るんじゃないかと考えた。
 しかし新聞とテレビという二つのメディアは、完全にわれわれの脳を掌握している。たった3つの数字を見ただけで、僕はあの3月11日と、今日の3月11日という文字を関連付けてしまった。
 勘違いされるように書いてきたけど、僕はあの震災があったことを忘れたいんじゃない。今日が一周年のその日で、今日が改めてあの日を振り返らなければならない(唯一の)日であり、もっと言えば、テレビの特集を組まなければならない、もしくはテレビの枠をあれだけ使うのは今日だけだという、そういう日にしているということを忘れたかった。
 震災は、今日まで続いているし、これからも続く。今でも磐石であるはずの大地は揺れ続けている。PTSDの人たちの感じ方は、全く事実に則している。
 仕事を無事に済ませてから昼休みに休憩室に行くと、ニュース番組がやっていた。1時50分のことだった。休憩室には、今日から、僕の働いてるフロアから下に移動になったI先輩がごはんを食べていた。僕もごはんを食べようと厨房に頼みに行ったら、食事を頼む注文用紙を書き忘れて、なにもなかった。僕のミスなのに、厨房の人たちが少しでも申し訳なさそうにしているのが申し訳なかった。改めて注文を書き直してから、走って近くのセブンイレブンに弁当を買いに行った。最近、全速力で走ってないと思ったので、この短い道を、全速力で走ってみた。その筋肉痛はこれを書いてる今まで続く。
 休憩室に戻ると先輩はいなかった。今日から使いはじめることになった、隣にある「喫煙室」で、タバコを吸ってるものと見える。それまでは、いちいち外に出て、のれんのようにしたビニールカバーの陰に隠れて、吸うようになっていた。寒い時期は特につらい。いずれにしろ、タバコを吸わない僕には関係がなかったが、それゆえにむしろ気になっていた。
 親子丼をマッハでかき込みながら、一人になったとはいえわざわざ止めるには及ばないテレビを見続ける。一人目の少年。
 彼は福島の高校生で、あれからずっと、「復興」を訴える青年として、いろんな舞台に立っている。ヨーロッパの某サミットに出席して、おそらく自分で考えたと思われる英語を、原稿を広げながら読み上げる。
 マスコミにマイクを向けられたら、真剣な顔つきに、あの時のことを語るのにとてもふさわしい表情になり、時には激しく泣きながら、標準語で語る。
 ある小学校の合唱。詳しくは覚えてないけど、「これからは私達がはげます番だ」という歌詞が繰り返される。小学生とはいえ、その歌詞の意味がわからないはずはない。それを繰り返し、あの小学生に独特の、ぎこちない歌い方で歌わせている。
 ある少女。津波による直接の被害はからくも逃れたが、彼女の住処は立入禁止区域に指定された。おそらく、避難のために住むことになった、県内とはいえかなり遠くの街での暮しに一段落がついたところで、転校の話が持ち上がる。受け入れ先は、なんとか見つかったらしい。映像はもともとの彼女の故郷の町がどうなったのかをうつす。食料品店の陳列棚に、四、五匹のブタが鼻を突っ込んでいる。(どうやって撮ったの?)
 彼女のインタビュー。これは僕の主観的な感想だけど、彼女の年齢はちょうど、この「引っ越しさわぎ」の原因を、受け止められるのと受け止められないのとの、境に位置すると思った。つまり、この出来事をフィクションを受け入れるのと同じ回路で受け入れるのか、それとも現実の層に引き戻すことが出来るのか。(ただ、それはわれわれにも完全に出来ているかどうか?)
 彼女は流暢な福島弁で話す。ワンフレーズを聞いただけで、その土地のねばり強さを感じる。「すー」という音の伸びが、われわれとは違う。その言葉で、「けれどもやっぱし」、私は元いた所に帰りたいと話す。僕は音楽を聞くのと同じように気持ち良くその音を聞いた。
 別の少女。彼女も先の少女と同じか、それ以下の子供だった。罫線のない白い紙に、そうとは信じられないほど整然と、彼女の書いた文字が並ぶ。そこには「震災の経験」と「これからの復興」について書いてある。その原稿を手に持ちながら、百人いるかいないかの大人の前で弁説をしている。この子も高校生と同じく、標準語で話した。
 メシを食い終わって歯みがきをしながら、今までテレビにうつった人々の中で、誰が一番印象に残ったか、考えた。みなさんはどうだろう。毎食後に歯みがきをする習慣は僕にはなかったけど、先輩方はみんな磨いていたので、それに倣うことにした。転校の子だと思う。彼女だけが、メディアから流れ込んでくる「復興」という言葉と概念を使わなかった。彼女だけがおおやけの場に立つ時に使う標準語を一切使わずに喋っていた。方言と、あの年の子供に独特の言い回しで、つまり本当の本音で。彼女だけが、本当はどこに立っているんだかわかったものじゃない「俯瞰」の位置からものを考えることをしなかった、つまり、「復興」を考える時には、どこか日本全体のことを考えたり、個人には本当は触れ得もしない何十年のスパン、何十万人という人の動きを勝手にまとめ上げて、それが純粋に上昇傾向にある(もしくはそこまで持っていける)というような、うさんくさい考えに身を浸さずには考えられないけど、そうはせずに「ただ私があの街に帰りたい」ということを、話していた。
 僕は基本的に震災に関して、丸一年経った今でも、しっかり考えたことはなかった。それは完全に受動的な態度でそうなったのではなく、本当にこれだけは、何を信じていいのかわからない、まるで途方もない問題だと思ったので、なにも考えないことにした。ただ、テレビ(めざましテレビとか)で言われているような、人々の口にのぼるような形での「復興」なんかありえないと思っていた。たとえば、かの地の漁師が漁業を再開したとかいったことを、あたかも復興のきざしのようにとらえることや、「除染」があたかも可能なことのようにとらえること。これらは全て、「松潤はウンコしない」と同じ程度のフィクションだと思っていた。同じテレビというフィルターを通すわけだから、フィクションのレベルも同じにならざるをえない。それに、松潤がテレビの中でウンコしている所を、見た人はいないと思う。

「あと10分で、2時46分になります」というアナウンサーの言葉を聞いただけで、知らなかったけどそれが地震か、津波の起こったまさにそのタイミングだということがわかった。その瞬間を今か今かと待って、その時になったら一斉に黙祷をささげること、そしてそのあとの天皇の挨拶、これらを全てショーアップするつもりらしい。僕が休憩に入ったのが1時50分だから、仕事場のフロアに戻らなければならないのは2時50分。いつも、戻る直前にトイレに行くことにしていて、そのタイムラグを合わせて5分前には休憩室を抜けることにしている。しかし少し前にトイレに行っておけば、別に黙祷のその時まで残っていることはできる。
 僕はイヤミのように2時45分きっかりに休憩室を出て、トイレに寄ってから仕事場に戻った。



 どりすさんが小島信夫に関するツイートをリツイートしていたので、気になってその人のアカウントをながめていたら、「群像で小島信夫の特集をしている」といっていたので、休みの日の予定に、「群像を買う」を追加した。
 なぜかそんなに休日が少ないわけでもないのに、やることがいつもいつも累積しているのには驚く。しかも休みには必ずやることとして、カリンバの練習と読書がそこにネジ込まれている。
 今日は、前練習したのとほぼ同じところしかやらなかったので、録音もしなかったけど、その間に、急ごしらえの記譜法を作った。

 元曲の楽譜の上下に、カリンバの棒に付いている、「ド=1」から「シ=7」までの数字を書き込む。音譜に近いところに書いておいて、リズムはそれに頼る。上に書く数字はダイアトニックの側で弾いて、下のは半音階の方で弾く。
 こうすることで、弾く時に直に数字を見て弾くだけでいいのでわかりやすいという他に、ピアノの何オクターブにもわたる曲を二オクターブにおさめるための若干の編曲の過程も残すことができる。
 楽譜のライン(なんて呼ぶの?)の上下に書くので、上のラインの下に書いた数字と、下のラインの上に書いた数字は近くなってしまうので、必要だったらそれをセパレートする線をかく。横に隣合せているのもまぎらわしかったら縦に線を引く。
 今日はまたすごい寒さで、夕方になると、いても立ってもいられないくらい寒くなったので、新しいところを練習する暇もなく片付けた。
小島信夫特集」を読んだら、なんのことはない、ただの「アメリカン・スクール」の再録と鼎談だった。鼎談のメンバーは奥泉光保坂和志青木淳悟という、奥泉光以外は興味深いメンバーだったけど、思いの外ハズれてて、いい対談じゃなかった。二人には「テーマで語れば何もかも台無しになる」という了解が、言わずとも通っている。