クロード・ドビュッシーの『ペレアスとメリザンド』とフォーレの『ペレアスとメリザンド』、エリック・サティ/テラバイト/架空の古本屋


「シシリエンヌ」の部分を聞きたくてフォーレの『ペレアスとメリザンド』という劇付随音楽を聞いた。
「劇付随音楽」というジャンルは、ぜんぜん知らないけれども、要はBGMのようなもので、つまり「オペラ」のように、曲に合わせて歌って、話の展開と音楽がガッチリと噛み合ったようなものではない。
「シシリエンヌ」含めフォーレの『ペレアスとメリザンド』は、なのでそれ自体ただの曲として聞ける。また、劇の裏で流すことによって、完全に同期するわけじゃないけど、連関を楽しむことができる。
 それを堂々たる「オペラ」にしたのがクロード・ドビュッシーだった、らしい。それを今日図書館で借りてきて聞いたけれども、まるで聞く気にならないのに驚いた。
 前は一応は、ラヴェルと共にドビュッシーの、「子供の領分」とか「映像」シリーズとかを、楽しんで聞いたものだけども。いや、楽しむなんてものじゃなく、必死にそのエッセンスを聞きもらすまいと、聞いたものだったけれども。
 音楽は一旦タガとでもいうものが外れてしまうと、つまり自分の脳の中に作ったレールから外れてしまうと、もうボロボロになって理解不能になる。
 ドビュッシーの『ペレアスとメリザンド』は、まず劇のはずなのにどこを切っても同じツラを見せる金太郎飴で、おまけに久石譲やらディズニー映画やら、自分の中での嫌な音楽ばっかりが連想されてしまって、とても聞けなかった。
 エンコード中にこれはもう聞かないからといって、エンコードを中止してそれまで溜まったファイルも削除してしまったというのは、これがはじめてだった。
 いったい何がいけなかったのか? もういくつかの曲を聞いてみて、ドビュッシーというもの自体が嫌いになってしまった可能性があると思い到った。
 エリック・サティを聞いて、そう思った。エリック・サティのピアノ曲は、普通のピアノ曲と違う。普通のピアノ曲は、そこにピアノが置いてある以前に、聖なる音楽の法則というものがある。エリック・サティのピアノ曲は、聖なる音楽の法則が置いてある以前に、ピアノというものがある。
 音楽の規律を現実世界に移すために、ピアノが作られた。その証拠に、ピアノには白鍵と黒鍵がある。これは、音楽の法則の反映としてある。
 しかしエリック・サティの曲は、まずふとそこにピアノがある。白鍵を押した時に、白く塗っていない木目が見える。ゆっくり押し込むと、カクっとなる点がある。黒鍵はカドのところが丸く削られていて、ケガをしないようになっている。子供がそれを弾く。「ドレミファソラシド」と同じように、「レミファソラシドレ」を弾いた時に、その子供は変な感じを覚えるけれども、それが何でなのかわからない。
 でもそれは、たとえば鍵盤を打楽器のバチのようなもので素早く叩いて、木の音を鳴らしたり、フタを勢いよく閉める音を聞いたりすることではない。それなのに、まず物としてのピアノということを、なぜか感じさせる。
 クロード・ドビュッシーエリック・サティの『ジムノペディー』(聞いたことのない人はいない)を、管弦楽に編曲した。これも僕にはまっすぐ良いと言えない。本当にそうなのかどうかはわからないけれども、仮にドビュッシーが、音を美しくするための全力をここに尽くしていたとしても、「その美しさはエリック・サティの美しさとは違うんじゃないの?」と言いたいような気になってくる。
 僕はこんなことを最前に思って、書きながら 808State なんかかけてしまったから、ここから先の考えはもう普通に文章化することはできない。



 もともと中古でものすごく安く買ったこのノートPCはあらゆるスペックにおいて不足しないところはなくて、中でもHDDの容量に苦渋していた。
 音声ファイルを溜め込んでいるだけですぐに限界が来てしまって、あふれた分は、DVD-Rに焼いて保存していた。
 まさかそんなデータの保存の仕方をする人は、そのPCが現役で売られていた五年前にも、たぶん誰もいなかった。
 でも、今だから言えるけれども、自分で働いて得たカネではなかったので、どうしてもまとまった出費を避けてしまう。その結果、思い切ってする買い物よりも高くついてしまう。
 音楽ならまだいいけど、最近ニコ生を保存してあとで聞く習慣がついた。これは動画なので、さらに早く資源が底をついてしまう。
 もうカネの心配は要らなくなったので、HDDを買うことにした。
 僕は Windows は 3.1 と言っていた時代から知っていて、その頃は「驚異の100メガバイトのHDD!」だった。それは父が気まぐれに子供を仕事場に連れて行って、そこで研究用に使われていた、最新型のPCを触らせてくれた時のことだった。
 さらに後になれば、うちにも「一家に一台」のPCがやって来る。その頃は、「驚異の1ギガバイト!」だった。十年か、もうちょっと前だろうか。PC98とDOS-Vという二つの機種に分かれている頃、Windowsは95が最新だった頃の話だ。
 その時にPCの感覚の全てを身に付けた世代なので、僕は今だに「HDDが、32GBもあるなんて、もう十分じゃん」と思ってしまう、というところもあった。
 テラバイト、というのは無茶な数字だった。ネットで「テラワロス」とか「テラモエス」とかいう言葉が流行ったのもたぶんその頃で、おそらく無茶な数字だという感覚は、共有していた。
 それも今や一家に一台、それどころか1TBのUSBハードディスク、それも手のひらに収まりそうなくらい小さくて薄いものが、一万一千八百円、それもヤマダ電機で買ったらポイントが1、131ポイントも付いて、一年間の保障まで付いてしまう。
 僕はもうこれをイメージし切れない、無理やりそうしようとしたら、ドラえもんの地下室にでもなるしかない。僕が今まで持っていた、ありとあらゆる宝物を放り込んでも、その1%にも満たない、反対側の白い壁が霧に霞んで見えなくなるくらいの、宏大な箱型の空間。


 神保町の三省堂は新刊書店だけど、いくつかの古本屋がそこに本を置いてもらって、委託販売? してる。
 そこで買った本はきのうの日記でリストカット、じゃなかったリストアップしたけれども、中でもヴァージニア・ウルフの『私だけの部屋 女性と文学』を買った、その元の店が信じられないくらい家から近かったので、今日行ってみた。
 住所だけを頼りに、その周辺を回ってみたけれども、なんら古本屋らしい構えは見当らなかった。おそらく、ああいった委託販売や、ネット通販しかやらない、架空の古本屋らしい。
 僕はいわゆる古本屋めいた古本屋じゃないとさびしい。
 もう一冊、同じようにその三省堂の委託販売で買った本の元の店は、国立市でブックカフェと併設されているというので、今度の休みにでも行ってみたい。