アルフォンス・ドーデー、荷風(神保町)/雪/カリンバ

 神保町、白山通りと靖国通りの交差点を西に行ったところにある「珈琲館」に、今いる。
『別れる理由I・II』(二冊で三千円!)、ドーデー『風車小屋だより』、『アルルの女』、ヴァージニア・ウルフ『私だけの部屋 女性と文学』、蘭郁二郎『地底大陸』、古井由吉ムージル 観念のエロス』を買った。
アルルの女』でも、『月曜物語』でも「?」だった、ドーデーの評価が、『風車小屋だより』を読んで、「!」に変わった。
 荷風がフランス自然主義文学のどの部分に活力を得ていたのか、今までずっと気になっていたけど、たとえば『風車小屋だより』を荷風が読んでいたとしたら、それが荷風のその後の文学活動に明確な方向性を与えたに違いない。
『序』から似通っている。ツタがからまってもう粉挽き場としての用を成さない風車小屋を、詩作に使えるからと、二束三文で買い取るその不動産的発想は、そのまま荷風が「断腸亭」の代わりを捜し歩く視線と重なる。
 ただ、ドーデーがパリを捨て、ひたすら自然を愛するのに比べて、荷風は東京を捨てなかった。もっとも、この比較は国の差別を無視している。荷風は東京の郊外を愛していたのであって、当時の東京なんか東京駅を一歩でも離れれば、今の今の東京や当時の欧米諸国の各都市とは段違いの、田舎な光景が広がっていたに違いない。
 加えて、ドーデー『風車小屋』の一篇目、「居を構える」に見られるウサギやフクロウのような、アニミズムめいた描写は、荷風には一切ない。ドーデーのこれも、とっても可愛くていいんだけれども。



「珈琲館」を出ると、雪が降ってきた。
 はじめは雪ではなく、ビルの上から落ちてくる紙くずか何かかと思うくらいにかすかだった。僕が久しぶりに(といっても二月の四日に、例の青空文庫の集まりで来たばっかりだけども)神保町に来て、そこでたくさん買った、好きな作家の本を、喫茶店に入ってお気に入りのウインナーコーヒーを飲みながら読んで、六時きっかりに店を出たら、ちょうど雪の降りはじめだった。というあまりに出来過ぎた状況を、一瞬信じられないような気になった。
 それで、本当に雪なのか、わからないまま止んでしまえば、本当に詩にでもなりそうな情景だったけれども、さらに歩き回ってマックでビックマック200円なりをむさぼっているうちに、確実な雪になり、さらには神保町駅から家の近くの駅に着いた頃にはまごうかたなき関東のベタベタした雪が大量に降っていて、非常に歩きにくくなっていた。
 いろんな不便に引きかえても、雪が降るとテンションが上がる。


 今日はカリンバの練習はおうちでやった。外寒いもん。
 今日はまたボレロの練習と、親指以外の指を使う方法を検討した。
 カリンバは「thumb piano」と言われるくらいで、箱を下手に持って、上に余った二つの親指でポロポロはじくのが普通の奏法。
 だがそれだと、伴奏などやろうとしたら、すぐにキャパシティの限界に到る。
 マリンバとかの鍵盤打楽器も、はじめのうちは両手に二本、バチを持ってトロトロやるけれども、慣れて来たら片手に二本ずつとか三本ずつ持って、和音を奏でるようになる。
 それと同じようにしてはいけないことはあるまいので、親指と人差し指、両手で計四本の指を使う奏法というのを、考えてみた。とりあえず正統な奏法が納得いくほど出来てからだけども、あまりそれでやりすぎても、のちのち新しい奏法を覚えられなくなるかもしれない。