明日が休み

 備忘録。
 突然わかったことだけれども、CDにされた/音声データにされた/ともかくスピーカーに流すことを前提とされた音楽を作るのと、生楽器で直接耳へとどける音楽を作ることは、全く別のことだということがわかった。
 生楽器はその場で演奏されるから、同時に演奏するにはいささかならぬ制約があるのに対して、すでに録音されミックスされた音声は、あとからいくらでも変更が効くので、より自由が増す、ということでは全然ない。
 たとえばヘッドフォーンでは、低音が一ミリ(触覚として率直にそう譬えても感覚として近いと思う)でも違えば、一つ一つの音の質量が変わる。
 それは低音域の話だから、低音、もしくはそれを含む多量に倍音の入った音にのみ影響が現われるのであって、高音域のみ使う場合は、さして関係がない、というのでは全然ない。
 前にも問題にしたハンドベルの音。時間軸から言ったらほぼ99%の残響である、高く響く音は高音のみであると言ってもいいけど、残りの1%は一瞬のアタックの音で、それは無理やり機械音のたとえで言えばクリックノイズ(定義としては一瞬(無時間)の間に全ての音域を含む音、波形で見れば絶壁を示す)に近く、やはり低音を含み、それが変化したら当然音から感じられる質量が変わる。
 このように、音域の変化から逃れ得るようなものがあるように見えて、実はないし、たいがいの曲は、全音域においてバランスを取るように出来ているし、それはそうしないでもいられるというたぐいのことではなく、音楽の本質の一つであると思う。
 さっきから「質量」「質量」といっているけれども、それは無視していいものだという視点はあなたにはないのですか? と言われるかもしれないけど、この「質量」の「質」という字を、「クオリア」と読み変えていただけると、事の重大さが少しは伝わりはすまいかと思う。
 生の楽器から人に聞かせる場合は、それを考えなくてもいい。手でつかめる位置に楽器があるということを、音として自明のまま伝えることができる。
 それと、「自由」ってそんなに良いものなの? 実はくだらないんじゃないの? と思うことが最近多い。
 食糧制限すべき人が「自由に」物を食べたら寿命をちぢめる。