今年の抱負(長文注意)(2)

 すると当然、「つまりは勝手に読んでて楽しいもの、すなわちエンターテインメントを読むのがいいのか」ということになる。普通の人はそうなる。でもそれは違う。
 かねてから思ってきたことを一気に書くのでとりとめがなくなるのを承知で、しかも「楽しむものを楽しむのが当然の権利」だと思っている人が、それに対する批判だと思って読めば必ず反感を覚えてしまう趣旨であるにも関わらず、信憑性を添える何物をも付け加えずに並べるとすれば、……
 今言った「エンターテインメントの評価基準としての『楽しさ』」は、単一のベクトル*1として語られる。すごく楽しいからとても良くて、そこそこ楽しいからまあまあ良くて、それほど楽しくないからそんなに良くはなく、全く楽しくないからぜんぜん良くはない、といった具合に一本の線上に置くことができる。しかし当然ながらそれらの一つ一つはいろいろな要素が混成的にからみ合っている。
 この「混成的」ということについて、どう伝えていいかわからない。それはたとえば「全く新しい」とされているものが実はぜんぜん古いものだということでもある。また一人の人間の力に帰されているものが、実は多勢の人によるものだということでもある。
 ファンタジーはキリスト教(的要素)に依拠する。しかしその大元を顧ないでその力をわがものにしている(かのように見せかける)。
 いや、古き良きキリスト教(的要素)に依拠しているのであって、今あらゆる科学と折り合いをつけつつ進化するキリスト教(的要素)をないもののように見ていると言った方がいいか。
 今言葉の流れで「古き良き」といったけど、古いものは良い悪いを超えて、それらとはもはや以前のような関係を取り結べないものだと思う。
 古いものを装っている新しいものと見せかけて実は古いものである天使や悪魔の顔を、「とりあえずそれそのものだと思って見て」と言われても、えたいが知れない。
 SFは戦争(それも第二次世界大戦という限られた時間の)に依拠する。僕はついにこれがわかった時には(それもお風呂に入っていた時だったと思うけど)、今まで慢然と「SFって何だろう」と思いながらひたすら読み続けた数年の時間が、ひと回り角度を変えたような気がした。
 一番古いSFは、たぶん戦車が戦車を踏みつけていく映像に根拠を持ち、それを星と星に置き換えたものだった。それが冷戦になるとSFは冷戦になり、情報戦になると情報戦になった。
 ひるがえって最新の流行りに目をうつすと、「シンギュラリティー」という概念を、SFは用いている。機械(ソフト)を作る機械(ソフト)を作る機械(ソフト)が機械(ソフト)を作って、それらは絶対に技術を次第に高めて加速するはずだから、いつか臨界がおとずれ、以前とは全く別の世界になるだろう、という感じの概念だ。
 これは情報技術から純粋に導き出された結論であり、いくら信じ難いとはいえ人類にとって不可避の運命でもあるかもしれない? いやいや、これは最終的に全てが統一される(しかも出発点は僕らのコンピューターという、手持ちのおもちゃである)という、ナチスのカタストロフのイメージから来ている。
 今はやりのSFを読んだらまた独裁者が現われるんですか? Pさんずっと思ってたけどいったい何を言ってるのか、ぜんぜんわからないです、と思われるかもしれないけども、そういうことじゃなくて、これも力の問題で、ドイツという国家を最終的に一つ(破滅)に導くに至った、国民一人一人が(だから独裁者が問題になるのではない)抱いた(抱かされた)イメージの力を、まるで五十幾年後にふと思い出す夢のようにして(あの頃のドイツ国民がわれわれを夢見ている)、再現したということだ。
 全てを一つに、とか、全てを無に帰する、とかいうことは、常に都合が良すぎる。じっさいナチスにしたってこうやって、全てが統一されようが無に帰したフリをしようが、こうしてうだうだと悪夢を見続けている。影響は至るところから漏出し続けている。
 でも僕は、本当は、SFの批判をしたいわけでもなければ(こんなズボラな論議めいたものを、先程の「彼」に見られでもしたら、全力で僕が間違っていることを納得させられるか、もしくは「そんな簡単なことは既に何年代の誰それが指摘していたことで、改まって君に言われる必要はない」というように無化されるだろう)、ファンタジーの批判をしたいわけでもなければ、さらにいえばエンターテインメントを普通に楽しむことが間違ってると言いたいわけでもなかった。本当に、本当に言いたかったのは、「楽しめるものを楽しむのは当然のことで、誰にでも出来ることで、人間にあらかじめ備わっている機能で、自然なことで、疑問を感じる余地もない」というのはウソで、それを「楽しい」と思わせる力が、一体どこから引っ張り出されて活用し直されているか、わかったものじゃない、ということだ。
「楽しめるものを楽しむのは当然のことで、誰にでも出来ることで、人間にあらかじめ備わっている機能で、自然なことで、疑問を感じる余地もない」というのはウソというのは、このうちのどれかがウソなのではなくて、これら全てがウソだと、僕は思う。
 楽しめるものを楽しむのは当然のことではない。
 誰にでも出来ることではない。
 人間にあらかじめ備わっているものでもない。
 自然なことではない。
 疑問を感じる余地は、ある。
(つづく)

*1:言葉の響きで「ベクトル」と言っちゃったけど、本来はベクトルは「一つのスカラー値と方向を持つもの」であって、今僕が述べた「楽しさ」には方向がないから、スカラー値だと言うのが定義にかなってるけど定義はどうでもいい