漫ろ歩き日没に至る

 歩いてるなう。
 地下鉄でMの内線H南町駅まで来て、そこから歩きで軽く片道一時間はかかるS並区立T井戸図書館に至り、本の貸し借りをした。遠いけど、ここにしかない本がある。しかも最寄りの高井戸駅はJRだから乗り継ぐと高い。なので電車網が過剰に発達している大都市東京で、これだけ歩くことになった。
 目的は申し訳程度にあるにしても、端から見て徒労また時間の無駄に見えなくはない。ただ僕は足の皮の擦り切れない限りひたすら歩くのが好きで、それも東京の、さほど繁華ではないにしても住宅と商店街のある、要するになんの特徴もない街路を歩いてても面白く感じる。
 惜しむらくは最近一段と眼がぼんやりしてきたことで、こうなると環八環七沿いに林立している、排気ガスに燻されて時期外れに硬く縮れた木の葉の様子も、落ちて踏み砕かれてからでないと詳細には分からないようになった。
 しかし今日ひたすら歩いたのはそのK八K七通りではなく、それと直交して方南町駅から真っ直ぐ延びるH南町通りと、それの途切れる突き当たりにT字で接しているE頭通りだった。それをさらに真っ直ぐ行って、浜田山という辺りで適当に南の細い道に折れて、KO井の頭線の線路を跨いでからちょっと行けば、目的地の高井戸図書館に辿り着く。
 ところでこの浜田山というのが曲者で、浜田山なんていう地名は特に聞いたことが無いのにも関わらず、迷路みたいに高級マンション群が広がっていて、そんなのを見ると我が身との格差を思い知って悲しさに愕然となる。
 Pさんなにを以て高級マンションと断定するに至ったの? それが証拠にある区画などは、壁のように湾曲して建つ住処の背後に、学校のグラウンドぐらいかそれ以上の広場が悠然と広がっている。悠然と。
 マンションという構築物自体、東京という狭い土地にいかに効率よく人を詰め込むか、その努力の帰結であると言っても言い過ぎではないのに、そうまでして詰め込んだ建物の横に、子どもでも遊ばすためのサラ地をのさばらすとは。
 これは誓って富豪のやることだ。
 それ以外にも照明量に汲々としないぼんやりした茶色のライティングとか、敷地の角のマーライオンめいた噴水とかとか、高級らしい雰囲気がそこら中に横溢しているとあれば、公共施設だからそんなはずはないとはいえ、そこから歩いて0分の所にある中学校や図書館も、そのマンションの利便のために隣りに建てられたようにすら見えてくる。
 この中学校の生徒は、果たしてどんな子供らなのか。中学までは土地で決まるから、ここに通ううちのほとんどの生徒が、マンションから雪崩込んでくるに違いない。わずかにその周辺の一軒家から通う生徒も混じっていて、「マンション組」に交わされる話題についていけなかったりする。
 待てよ。これはまさにPさん自身に当てはまる話で、僕もちょうど中学の時には、近くに併設される自衛隊の官舎の子どもが大多数、自分は一軒家から、という具合だった。
 今思えばその全員が自衛隊員の子どもであるその子たちの会話に出てくる「カンシャ」「カンシャ」というのがなんなのか、そもそもどんな字を書くのかすらその時は分からなかった。
 神に舎と書いて「神舎」なんじゃないか、と思ったことすらあった。
 ……話がそれた。誓って最初の行を書いた時は「歩いてるなう」だったし、軽く前置きして、本当に歩いてる時に見えた物を書いていく予定だったけれども、この終わりまで来た時には既に電車なうだったし、さらにこの但し書きは家なうだった。