本当は切ない宮沢賢治の詩

 前置き抜きで、ちょっと紹介だけしたいと思います。
 著者生前未公刊の「詩ノート」の中で、唯一、寓話めいた、そして解説によると「唯一自伝的要素のない」一篇。

  一〇七一  〔わたくしどもは〕

一九二七、六、一、

わたくしどもは
ちゃうど一年いっしょに暮しました
その女はやさしく蒼白く
その眼はいつでも何かわたくしのわからない夢を見てゐるやうでした
いっしょになったその夏のある朝
わたくしは町はづれの橋で
村の娘が持って来た花があまり美しかったので
二十銭だけ買ってうちに帰りましたら
妻は空いてゐた金魚の壺にさして
店へ並べて居りました
夕方帰って来ましたら
妻はわたくしの顔を見てふしぎな笑ひやうをしました
見ると食卓にはいろいろな果物や
白い洋皿などまで並べてありますので
どうしたのかとたづねましたら
あの花が今日ひるの間にちゃうど二円に売れたといふのです
……その青い夜の風や星、
  すだれや魂を送る火や……
そしてその冬
妻は何の苦しみといふのでもなく
萎れるやうに崩れるやうに一日病んで没くなりました

 全米が泣いて映画化決定ですね。
 一つだけ、解説ではこれを「唯一自伝的要素のない」といっていますが、そんな言い方をすると、まるで他の詩は全て自分のことを書いているみたいじゃないですか。
 労働者全てに捧げる詩が、自分のことを書いているだなんて(解説の言い方に寄せれば、「自らの出来事に材を取って」、とでもいえばいいか)、おかしい気がしませんか(というか、宮沢賢治の詩を「どこに材を取って……」みたいな見方をするのが)。
 全ての詩に、あらゆる世界が複雑に交錯しているのであって、「これだけが唯一」、みたいのはないようになっていると、僕は思います。