ハチの巣にしてやろうか

 ベランダの自室と隣室のちょうど間のあたりにスズメバチの巣が出来た。
 このベランダに通じる窓はめったに開けなくなって久しいので、せっかくの休みだから本の埃でも掃おうと窓を開けて顔を出したその真後ろに、頭一つ分のスズメバチの巣が出来ているのを見た時は、むしろ幻覚を疑ったくらいだった。
 人間とは不思議なもので、目視した瞬間にその存在を確固たるものとして認識する。それまで平気でバンバン音高く本をはたいていた手はピタッと止まり、そーろと窓を閉めて以降一切開ける気がしなかった。
 母に相談したら前にも軒下に作られたことがあって、役所に頼めばなんとかしてくれるという。それにしても、と母。
「十年前に駆除したあのハチが、戻ってきたなんてこと、ないわよね」
などと詩的な会話もはずむ日曜の夕暮れ時だった。
 スズメバチの巣が一朝一夕で出来上がったなんてそれこそ幻覚の話で、少なくとも数ヶ月前から着々と作られていたに違いなく、その間この部屋にスズメバチが入ってきたこともなければ外に出て刺されたこともないので、世に言われているほどスズメバチって獰猛でもなければ、こちらから向こうの領域を侵犯しなければ、近くに行ってブンブン翅を鳴らす警戒の行動すら起さない、きわめて紳士的な存在なのではないか。飲み屋で貴重な栄養をブチまけるサラリーマンなんかよりよっぽど身をしぼったタイトな生活を送っているのが彼らだから、人間より以上の理性をそこに想定するのは、あながち荒唐無稽とも言えないんじゃないか。
 だから、もちろん怖いからいずれ排除するにしても、そない焦ってやることもないだろう、と自分はのんびり構えていても母は一旦行動すると早い。次の日にはもう役所の人を呼んじゃってて、その日は自分が家にいないから別の日にといったらさらにその次の日に呼ぶことになった。それが今日。
 二人組のいかにも役人という感じの中年の男性がこの汚い部屋を通り抜けて、テレビとかでよく見るあの白ずくめの隙のない防虫服も着ないで、業務用の黄色のぶっとい殺虫剤六本であっという間にケリをつけて、その辺に転がっていたビニール袋に切り取った巣を入れて持って行ってしまった。
 去り際に、「もしかしたら数匹、エサを取りに行ったハチが帰ってくるかもしれないけど、すぐにどっか行くから」と言い残していった。
 かくして、スズメバチの巣が、文字通りハチの巣になりましたとさ。トテツテチン。