白川静『漢字百話』「寡」

 ずいぶんごぶたさになってしまいました。ニカにちは。Pです。
 僕が漢字学者の白川静が好きなことは再三述べておる通りですが、どこが好きなのかといえば、ひとえに、彼が漢字を分析することにおいて、単なる文字の発想や字義といった表面的な部分にとどまらず、漢字を作った人々がその体系を編み上げる際にその字に込めた精神、思惟などにまで踏み込みその意義を明らかにするところにあります。
 その「思惟」がどんなものであったか、もちろん、「AはBである」式に辞書的に直線的に述べられるところは重要ではなく、体系「ごと」理解することが、最終的には重要なのでありますけれど、そのとっかかりにはなるであろうと思われる、現代の「ドラマティックな」理解に触れるような点を、紹介したいと今回は思います。
 該当箇所を、分割しながら、私がマネして書く漢字の起源的な形である「金文」「甲骨文」の文字を添えたいと思います。一つには本文にある図をキャプチャーするにはあまりに小さかったりめんどかったりするからですが、一つには白川静自身もやった、「金文、甲骨文を何度もなぞってこれを書いた人の気分になる」という経験を、少しでもかすめたいと思ったからでもあります。

 寡(図)は廟中に憂える人の姿である。なげき申す相手は、いうまでもなくわれを残して先立った夫である。憂は、この人の姿に心をそえた字である。そのもの思う姿を優という。思い擾《みだ》れることを擾《じょう》という。


 言うまでもなく寡は「寡婦」などの寡で、配偶者を亡くした者をあらわす字ですが、これがこんな形をしていたのですね。泣けるのは次です。

婦人は魚の形で表象されるが、男の表象は、一般的な鳥形霊で示されるのであろう。この憂いなげく人の後に、さりげなく隹《とり》をそえた字形(図)がある。面影にたつ人のはかなさを、うしろによりそうようにあらわしたものとすれば、古代の人びとの造字感覚に、改めて深い息づきを感じないわけにはゆかない。


 左側で、左を向き手を上げて髪をかき乱しているのが「寡」です。そしてその右側にさり気なく浮いているのが「鳥形霊」である「隹」です。つまり、左を向いている寡婦の、そのうしろにぼんやりと浮かび上がっている夫の霊、ということになります。
 泣けませんか。

漢字百話 (中公新書 (500))

漢字百話 (中公新書 (500))