ゴーゴリ『死せる魂』

 上・中・下の中巻のまんなか、つまりどまんなか(また未完なので、ここがまんなかというわけではない)あたりに、こういうところがある。

世界人類発達史の中には、全然取るに足らぬものとして、さっさと抹殺されてしまったと思しき世紀がかなり多くあるようだ。現今《いま》なら三歳の児童でもよもや犯すまいと思われるような誤ちが、この世界ではざらに犯されて来たのである。ひたすら永遠の真理に到達せんものとして、選りにも選って人類は、どんなに曲りくねった、狭い、薄暗い、通りぬけることも難かしい、その上ひどく遠まわりな道を歩いて来たことだろう! その実、人類の前には、皇居に定められた荘麗な宮殿へでも通ずるような、真直ぐな、広々とした大道がひらけていたのである。他のあらゆる道よりも広々として美しいこの大道は、昼は白日に照らされ、夜は夜もすがら灯火に照らし出されていたにも拘らず、人類はそれを他所に無明の闇をさ迷っていたのである。すでに天よりの啓示に導かれながら、しかもなお彼等はこの大道を外れて、あらぬ方へと踏み迷い、白昼、道もない山里に進路を失って、互いに五里霧中をさ迷ったり、また鬼火にさそわれて深い沼地に踏みこんだ挙句には、恐怖のあまり、『出口は何処だ? 道は何処だ?』と、どんなに互いに訊ねあったことだろう! すべてをはっきりと認識している今日の人々は、寧ろかくの如き間違いを不思議に思って、自分たちの祖先の無智を哂っているけれど、そうした過去の年代記こそ、天の聖火によって記録されたもので、その中に書かれた一字々々は烈しい叫び声をあげ、どの頁からも、我等現代人を指導する厳かな手が差し伸ばされているのだとは知らない。しかも今日の人々は祖先を哂いながら、さも偉そうに大きな顔はしているけれど、豈図らんや自分たちもまた、やがては後世の物笑いになる数々の新らしい誤謬を犯しはじめているのである。

 これは現在出回ってる過去の平井肇の訳を現在風に書き直した横田瑞穂共訳のものではなく平井肇の直接訳のものを現代かなづかいに改めたものなので著作権が切れてる。
 この視点はのちのチェーホフにも出てくるし、『夜戦と永遠』にも通じる。
 これを「脱線」として済ましてしまうゴーゴリの広大さ。