チェルフィッチュ

 こんばんは。Pです。
 きのう池袋のジュンク堂で前から気にはなっていた岡田利規チェルフィッチュ)の『三月の5日間』を買いました。
 という戯曲集(「マリファナの害について」「三月の5日間」「労苦の終わり」の三作を収めた、扉の手触りの実になめらかな本)と、という演劇をおさめたDVDの両方です。
 この戯曲集を読んで(「マリファナの害について」を全てと、「三月の5日間」のさわり、けど「三月の5日間」は小説にもなっていてそれは何度も読んだ)、またこのDVDをほんのさわりだけ、でもさわりだけで「やばい!」と思って見るのをやめたのだが、の二つの経験から、思ったことはたくさんあるのですが、全くまとまらないままです。
 作っている本人が「《戯曲》がひとつの完成した何かであると考えたことが一度もない僕としては、三つの未完成品を詰め込んでそれを世に出すなんてことしていいのかな、みたいなことを」と言っていたり(戯曲集『三月の5日間』のあとがき)、
「内面のもやもやみたいなものをすっきり解決することはさしあたりどんどん先送りにしていって、で結局最後まで解決せずじまい、みたいな演技のしかたが僕は好きで、与えられた言葉なり動きなりにあまりにジャストミートしすぎた内面をアテている演技は、その俳優の身体が嘘くさくなって僕には死んで見えてしまう。」(六年前のブログ)
と言っていたりするくらいなので、それが僕の中でまとまるわけがないのですが、それでもそれを挙げるとすると、……
1 この前に買った同じく岡田利規チェルフィッチュ)の戯曲集『エンジョイ・アワー・フリータイム』にも三作入っていて、全て読んだが、そこには書き方に意図的なあいまいさがたくさんあって(順不同に演じることをすすめるような指示、並列的に単語を置いてそれが演じた時にどうなるか、読んだだけではわからない)、ずっと「戯曲集として出すためにかりそめの形をここにアップロードしただけで、演じるときやその指導をする時に、内部的には表面的には全く別のものになっていたに違いない」と思いながら読んでいた。
 しかしこの『三月の5日間』のDVDを、戯曲集で読んだ分だけ、とりあえず見てみたら、このテキストを全くその通りに読み上げていた。普通の戯曲だったら、あたりまえのことだけど、このテキストだったら、あたりまえではない。
 そのまま演じる(喋る)ことによって、テキストを読んだ時には、あまりに理解しにくかったり「読む時に不自然」だったところは全て、水にふやかすと開く造花のようにピッタリと形になった。
(でも演技者はテキストから想像したようなつたないものではなく、発声はちゃんとしていた。これも普通の戯曲だったらあたりまえのことだけど、このテキストだったら、あたりまえではない)
 前の本『エンジョイ・アワー・フリータイム』を読んでいた時も、「マリファナの害について」を読んでいた時も、ずっと考えていたことが、このテキストが読まれるスピードで、でも「読む」だけだと、日本語では「声に出して読み上げる」ことと「文字を読む」ことの違いが消えてしまった。
 昔は一つの漢字に多数の訓が、もしくは一つの訓に多数の文字が登録されていて、たとえば「はかる」と読むものだけでも、「計・量・度・図・画・諮・謀・訪」、「おもう」と読むものは「思・念・想・懐・憶・欲・以為・惟」とたくさんあった。
 常用字表における最大の問題は「みる」を「見る」と「診《み》る」、「おもふ」を「思《おも》ふ」に限定して、視、察、観、覧を「みる」とよまず、想、念、懐、憶を「おもふ」とよませないことにある。これらはいずれも他の漢字と結合して、多くの熟語を構成する文字であるが、それらの語は訓よみを拒否されることによって、ことごとくその理解の道を失うのである。国語語彙の半数以上が漢字によって組織されているといわれるが、この常用音訓表の制限によって、その大半が訓義的理解の方法をはばまれ、文字はただ複難な記号にすぎないものとなる。それはすでに文字ではない。
白川静『文字逍遥』、「漢字古訓抄」219ページ)

三月の5日間

三月の5日間


文字逍遥 (平凡社ライブラリー)

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