PV10000突破!

 PVと書いてプロモーション・ビデオではなくページビューです。どうもこんに、ちはPです。
 PVと書いてページビュー(リロードした数であって、来た人の数ではない)、10000達成させて頂きました。ありがとうございます。特にどりすさん、ありがとうございます。
 この日記はじめたのが6月の12日なので、かれこれ三か月とちょっと、書いたことになりますかな。今に至るまでどうにも、どんな感じで書いていくのか、固まってないですね。
 僕の脳裏にあったブログ、というかエッセイの理想形の一つは、伊集院光の「のはなし」シリーズです。

のはなしに?カニの巻? (宝島社文庫)

のはなしに?カニの巻? (宝島社文庫)


 文庫で、一番ぶ厚いのでこれにしましたけど。単行本も三まであるので気になる方は本屋で血まなこになって探していただければと思いますけど、これ、いろんな意味で勉強になります。
 伊集院光はラジオの天才で、喋りにおいて右に出る者はいないと思っているのですが、その人が缶詰になりながら書いたエッセイ集がこれ、「のはなし」シリーズです。
 もともとツーカーのメルマガとして週一で書いていたもので、それを加筆訂正して「あいうえお順」にまとめてあります。全て、「〜〜のはなし」という題が付いている。「アソコがかゆい」の話、とか、「ん?」の話、とか。
 なにが勉強になるのかといえば、「書くこと」と「喋ること」の見事な交点となっているところです。どういうことか。
 雑誌のインタビュー記事など、喋った音声を文字に起こすことを、「テープ起こし」と呼んだりします。それにしても「テープ」とは、時代を感じさせますね。とはいってもほんの十数年前までは、そういう技術の元にわれわれはいたわけですけどね。今でいうと「MP3起こし」でしょうか。
 その「テープ起こし」、僕は一時期タイピングをよくやっていたので、やってみようかな、なんて思った時もあったので調べたんですけど、「テープ起こし」は、読みやすくするか、それとも元の音声に忠実にするかの間に、いろんなレベルがあり、その最も音声寄りなのが「素起こし」と呼ばれています。
「でもそれでさあ、え、ちょっとでも新宿駅行く時にハダカで?」
「そうですフ。」
 仮にこんな会話の音声があった場合に、こう書くのが、素起こし。
「でも、新宿駅に行く時もハダカで?」
「そうです。」
 とやるのが、なんか「リライト」とかいう段階、らしいです。こいつら雑誌のインタビューでなに話してるのって話ですけど。
 なにが言いたいかというと、この「リライト」が必要になるのは、つまりわれわれが「文字にしてもちゃんと伝わるように喋ってる」といういくらつもりでも、じっさい全く忠実に文字に直すとじゃまくさくて読んでられない、ってことになったりする、ということです。文字と音声の断絶1。
 ちなみにその「文字に直すとおかしい部分」っていうのは、喋りだから余計な言葉が発生しているというより、喋りで聞いたら相当分かりやすくても、文字に直すと、ってことがあるということです。
(それと、今見てみたら、「でもそれでさあ、え、ちょっとでも」の部分、みたいなものは「ケバ」と呼ばれていて、「素起こし」の段階ですでに取り除かれる、らしいです、テープ起こしの作業においては)
 また、たとえば「である」口調のカッチカチの文章とかでなくても、なんていうか、喋ってるところを書いたつもりの文章でも、それをそのまま読み上げてみると、「なんかおかしい」ってなるということも、あるじゃないですか。それはバリバリ声を張り上げて朗々とやっている演劇とか見てたらわかると思います。文字と音声の断絶2。
 このように、といっても今いったようなことはごくわかりやすい、両面から等しく眺めた違いのようなものだから、簡単に浮上してきましたが、そうでなくどちらにおいても細かい運動の法則というか、それぞれ持っているので、僕には「喋ること」と「書くこと」は全く別のことのように思えます。
 ふだんそんな違いなどないと思われている(伝えたいことが伝わる分には、なにも違いはない)けれどもよく見るとぜんぜん違う、喋りと書きのその違いはどこから来るのか、どう違うのか、それをわからせてくれるのが伊集院光のエッセイです。
 さきほども申しましたように、伊集院光はとにかく喋りの天才で、週二時間喋ってもまだ喋ることがあって、その喋りを鋳固めるためにむしろ生活があるといっても過言ではないくらいです。
 なので、伊集院光の中にある言語活動というのはひたすら「喋り」に特化しています。
 その口が歩いているような男が机の前にすわってペンを持った時、そのあまりに静的な「書きつける」という行為にとまどいを見せます。見てきたように言っていますがこのことはラジオを聞いてからそれからこれを読めば一目でわかることです。文字を書くって、あまりにもおとなしい。喋ってたときにあれだけ笑えたことが……。どうして。
 その「どうして」を「どうして」のままにしたり、文字は別のものとして解決したり、それでもと喋りの運動をそのままネジ込んだり、いろんな努力をしているのが、そこに見られます。