さらなる偶然

 ちょっとまじめな話に傾きそうですが別段ちょっとしたことなので、肩の力を抜いてください。Pさんです。さんを付けたよデコ助野郎!
 僕は難しい本を読んでると偶然にも自分がそれと関係のあるなにごとかに浸りきっているのを発見して愕然とすることがあります。
 たとえば先日、七月の終わりから八月頭まで、遅ればせながら車の免許を取りに合宿に行っていたのは記憶に新しいところだと思いますが、その時学科をサボりつつ読んでいたのが佐々木中の『夜戦と永遠』、それもフーコーの章でした。
 そこではこんなことが書かれています。今持ってないので、覚えですが。
フーコーは従来の権力の考えられ方(あれはダメだよ、これはダメだよっていう禁止が権力の発揮されるポイントであるとか、禁止する人がいて禁止される人がいるっていうその対人関係を前提とするとか)に代わって、『規律権力』という権力の形を、監獄から見いだした。
 犯罪者の刑罰の形態は、身体刑(鞭打ちとか、市中引き回しとか)とかいう古い罰に代わって、牢獄に入れて徹底的に規則に従わせるものになった。なぜか。
 犯罪者を一ヶ所に集めることによって、むしろドラッグとか、流通し易いようになるのに、何でわざわざそんなことするのか。
 これはむしろドラッグの程良い流通が利益を生むので、そのまんまにしているのだ。
 一方で監獄というシステム(有罪と無罪に分けるのではなくて、なにをどう守ったのかを百点満点で監視して、すべての行動について記録を取っていくこと)は社会のあらゆる場面に流れ出ていった。学校、病院、会社、その他人をあるパラメーターの集合で把握し調整し矯正する施設すべてのことだ。
 そこでは体の動きがすべて制御され、少しでもズレた点があればさりげなく直され全員が同じ動きを獲得する。一人一人の行動はすべて把握されるがその把握する人は特定の誰かがいるわけでなく、不特定多数の名指しできない監視を受ける」
 ここまで教習所の待合室で読んで、ふと自分の行動の記録がすべて書き取られている「教習原簿」が手元にあるのを見て、周りには余りにヤンキーに見えるのに運転という運動を矯正されて順応していく生徒たちがいて、誰とは言えず無数の教官に無数の言葉をかけられていつの間にか運転できていくシステムを眼にしたときには、驚きを隠せませんでした。
 つまり「権力の新しい形」がその時僕にはぜんぜんいっさい他人事ではなかったんです。
 他にもそんなことは結構あるんですがさすがに今回のは偶然と言えるのではないかなと思ったのが最近よく読んでるフェティ・ベンスラマの『物騒なフィクション』というの(放送で概要を話したことありますが共振してもらえた人はいなかったと思います)と、きのう本当に気まぐれにやったホラーゲーム『囚人へのペル・エム・フル』の一致です。
 きのうこれ無事ハッピーエンドまでいってかなり面白かったので動画で「全員死亡バッドエンド編」を見てそっちの方がまた面白そうで、ゲームにこんなに熱中したのが久し振りなのですが、そんなことも忘れて今日本を読んでいたらこんなことが。
 まあ前も話したのですが、この『物騒なフィクション』という本は、ちょっと前にイスラム圏出身で今どっかヨーロッパだったかな? にいたサルマン・ラシュディという人の書いた『悪魔の詩』という小説と、それにまつわる騒動について書かれたものです。『悪魔の詩』は、イスラム教の起源について、「フィクション」の改変があって、それがあまりに冒涜的だったために、イスラム圏の人々がみな激怒し、作者を含めこの作品に関わったありとあらゆる人が狙われ、作者に関しては、イスラム教のトップの人から死刑宣告まで飛び出しました。
 その作者、ラシュディは、にも関わらずヨーロッパ圏のありとあらゆる人、この出来事を「『フィクションの自由』に対して行われる『狂信者』の暴力」ととらえる人達によって守られ、今もたしかどっかわからないどこかで生き延びている、とのことです。しかしこれを日本語訳した訳者は暗殺されました。
 このような出来事に対して、『物騒なフィクション』の作者の、フェティ・ベンスラマは、
「これは今までイスラムが被ってきた冒涜とは種類を別にする」といったり、「そもそもヨーロッパはその版図を拡げるために使ってきた『自由』や『世界性』といったフィクションを当り前のもののように思いすぎている」とか、さまざまな、僕にとったらこれ以上なく「フィクション」を浮き彫りにしてくれる言葉を重ねていくのですが、今日読んだところが。
 この「起源」というところは、クルアーンに記してある「世界のはじまり」みたいなものをイメージして下さい。

 何ものでもなく、無から生まれる、それがあらゆる起源の直面しなければならないことだ。あらゆる起源の構築の務めは、無を引き受けること、それを囲い込むこと、それをもろもろの表象で着飾ることだ。……(略)……それが政治的なもののもっとも根源的な賭金であり、そこで政治的なものは宗教的なものと出会い、交錯し、あるいは混じり合うのだ。……(略)……呪われた部分といえばそれ以外にない。呪われた部分とは定礎する部分だ。このフィクションに手を加えることが引き起こす罪責感と恐怖はそこに由来する。……
(41p.)

 そしてきのうやったゲーム、『囚人へのペル・エム・フル』ですが、これは、あるマッドネスな教授が、発掘しちゃいけないピラミッドの領域を発被でぶちやぶって中に押し入り、その想像以上の広さをほこる地下空間を、人手として連れてきた旅行客と一緒に探索するというものなんですが、……
 詳しくはネタバレになるのでいえないですが、なかなか笑いとばせないエジプト神話の「書き換え」があり、まさに「神話に手を加える」というにふさわしいもので(もっともその神話というのが、たぶん今もうふやけたものなので、ベンスラマのいうようなシリアスな状況とは比べるべくもないのであるが)、こう符合してしまうと、このRPGの作者は、その「罪責感と恐怖」は感じなかったのか、なんて考えてしまいます。
 別にこのRPGの考察が足りなくてどうとか、発想が稚拙で神話に釣り合わないからどうとか、いいたいのでは全くなくて、むしろそういう、ベンスラマのいう「近代のフィクション(西洋の性質)は、なんでもかんでも暴露しないと気がすまない」という、われわれもそこに浸かっている空気を再確認するのに、役に立ったと、いう思いです。