風景が変わる

(長文(たいくつな話)注意!)
 放送ではパンツの話からどうしても抜け出せなかったので、それならこっちで真面目な話をしようと思います。Pさんです。
 新しいイヤフォーンを買ったのは前の日記の通りなのですが、家でいろーんな曲を聞いてると、本当に奇妙な、いろいろな変化が感じられるようになりました。
 僕は気取りとか妙な共感覚(変わりもの)の自慢とかでなく、音楽は最近は風景「としても」感じるようになりました。
 それは歌詞のある曲だとすればその歌詞の通りのイメージを浮かべるということでもなく、さりとてメロい曲でも聞いてそれに合わせてなにか、夜景だの海だの川だのを勝手に想像するというのでもなく、単純に、音がそのまま、風景を見ているような感じに感じられる、ということです。
 まだ、共感覚(変わりもの)自慢から抜け出せていないでしょうか。
 よく考えれば、音というものが、スペクトラムアナライズされたその一瞬の切れ目として「だけ」存在するというのは、変な話です。
 今言ってるのは何ら難しい話ではなく、要するに「ドレミファソラシド」とピアノを弾いた際に、それを「ド」「レ」「ミ」「ファ」……とそれぞれ切り取ったとしたら、その音自体になる、と信じるのはおかしい、ということです。
 ちょっとわかりづらくなったのは認めます。ただし、「ドレミファソラシド」という「フレーズ」自体が持つ香味(たとえば子供が弾いているような)が、それぞれの音とは別に存在する、ということは、思い当たらないでしょうか(それは「レミファソラシドレ」、にしても生まれる)。
 さっきの「ド」「レ」「ミ」「ファ」……を切りとる、ということを音響学的に精緻化したものが「スペクトラムアナライズ」なので、話は実に簡単なのですが、音の「流れ」とその「交錯」とかかわりなく切り取れる音というのは存在しない、もしくはそれは人間が感じ取る「音」とは別のものだ、ということは、わかるでしょうか。
 スペクトラムアナライズ的に見た音は幾何学的でステイブルなのですが、そのような「音の分析」は、人が自力でやろうがコンピュータに任せようが実に不毛な景色、もしくは膨大なデータになってしまうというのは、わかるでしょうか。
 音響学の分析によってパソコンに表示された、あのサーモグラフィーみたいな画像を、見たことのある人もいるかと思いますが、たとえばその分析された音声がサンバか何かだとして、「それ」(映ったサーモみたいなやつ)を聞いていると思う人が、いるでしょうか。
 そのように「不毛な」「膨大なデータ」として聞いていないとすれば、人は別のやり方で、しかしそんなやり方よりもよっぽど敏感に、音を聞いているはずです。それを僕は「風景」という感じ方をする、というまでのことです(ちなみに、なぜ「風景」という言葉になるのかといえば、時間にそってすすむ電車の窓から山だの森だのをながめている、という行為と近いからだと思います)。
 そろそろはじめの話題に戻るとすれば、そのような「風景」は、「音を認識する以前」に見えてくるものであるはずなので、声を文字だと認識してから見えてくるような詞であるとか、またアブストラクト(抽象)な音を聞いた時に勝手に想像する「寂しさ」「空虚」だのというものからさらに連想される、たとえばなんか索莫とした、フィンランドかどっかの白樺、をあえて白黒にした写真のイメージ、とは無縁なのがおわかりいただけると思います。そしてこう書きあらわせば、以上のような「イメージ」は、音が鳴ることに対して(それを感じることに対して)あまりにトロっちく見えるということも頭の隅に置いていただけるとありがたいです。
 僕の言った「風景」は音が鳴った瞬間に立ち上がり自分の意志で左右できないもので(イメージなら「人(or 感じ/考え方)によってはこう感じることもできる」)、音を認識する器官そのものを見るということです。これほどプリミティヴ(簡単)なものはないはずです。
 以上のような「風景」は音に一致して存在するので、イヤフォーンを買い換えて強調される帯域が変わってしまえば、別のものになってしまいます。
 しかし今言った「帯域」というのはモロに「不毛」であり「膨大」なデータとして積み上げるしかない「スペクトラムアナライズ」を基本とした音の幾何学の言葉です。この二つはそうは言っても手を取り合って進まなければならない類のものです。
 そして、さらにそれに従って言うとすれば、前に使ってたイヤフォーン(仮にAとする)と今使ってるイヤフォーン(仮にBとする)の違いは明らかで、Aが「低音強調」で、Bが「中、高音強調」なのです。
 でも人間はそう聞いてはいない。
 少し「帯域」という考えでわかるところでいえば、今の新しい「B」にしてみて、改めてわかったのは、バスドラムの形です。
 いや、物理的な形のことなんかわからないし、じゃあ「TR-808」(電子ドラム)のバスドラムの形ってなんだよってなりますが、ちがくて、音の分布のことです。
 たとえばアタックの部分に若干クリック音(高音のノイズ)が含まれているものの場合、高音が強調されれば、その部分がより聞こえてくるのは道理です。

バスドラムのアタックの部分にクリック音が含まれている例)
 だけでなく、サチュレーションをかけた(波形を上と下からつぶす)ところとかけないところ、その度合などが、同じように高音がはっきりすることによって、表情が変わります。
 そのくらいなら、「帯域」ということによって、説明がつく話なのですが、たとえば今の曲で言っても、後半の方で、そのバスドラムを「同時に二つ」重ねたようなところがあって、それが「A」で聞いていた時にはわからなかったのが、「B」で聞いた時にはじめてわかった、ということすら起きてきました、そうなると奇妙です、というのは、この「Ageispolis」、今まで何回聞いたかわからないくらい、聞いた曲なので、そんな「パートが二つかぶさっている」ような箇所を、抜かしてるはずがないんです。
 ひるがえって Squarepusher の曲に次は移りますが、

この「Hello Meow」という曲、真中あたりから、ハンドベルの音がありますね。余談ですが(こんなに長くなって余談!?)、ハンドベルって、「演奏すること」自体が見ものであるような、実にショーアップされた楽器じゃないですか、まあここは賛否あるのであまり押したくはないですが、少なくとも音色をさほどゆたかに変えられないという点で、テクノで使われる諸々の楽器とは反対の性質を持つのですね。それをあえて使っている名曲だと思うのですが、それはともかく……。
 そのハンドベルの音っていうのは、見た目よりちょっとだけマッシヴだというのが私の認識です。金属の高い音という基本的な認識とは別に、打った瞬間の固い低音の打撃があります。
 これがなくなることによって、「いかにも目の前でハンドベルを打っている」ような生々しさは消えます。そのようにイージーにした音は、生々しいものと違って、非常にコンビニエンスな音となり、どんな音楽にももぐり込めます。
 そしてこの曲で使われてるのはその「マッシヴ」を保ったハンドベルの音、だと思っていました。
 しかしBで聞いたときに、完全に「イージー」の側に傾いてしまっていました。
 今のことも「帯域」によって完全にわかることなのですが、それ以外にも、というか聞く曲(今までに聞き込んだ曲で)は全部、なんらかの変化をこうむっています。変化しないのは、ふだん聞かないことにしている、本当に雑な曲ばかりです。
(Bで聞いたら)あれだけ夢中になって聞いていた、Ceephax(Squarepusher の弟の)の曲のうちいくつかは、あまりにも「祭」(ごちゃごちゃし)すぎて、聞くに堪えない、とまではいわないものの、それこそ自分自身が「祭」になったような気分からははるかに遠ざかり、急に冷めてしか聞けないようになってしまいました。
 かわりに輝くようなディテイルを見せた曲も(Squarepusher & AFX / Freeman Hardy & Willis Acidとか)いくつもあります。今のもの(B)だと、カットアップの持つ質感は多様になり、持続する低音の陶酔は消えたように思われます。
 じゃあ、いったい、いずれが本当に使うべきイヤフォーンなのか(といっても、前のはブッ壊れたからすぐに買ったのですが)、またそれならといって本当に、「良いもの」とされるイヤフォーンなりヘッドフォーンなり買って、その音が本当の本当に正しいものなのか、……。いったい何が正しくて何が正しくないのか、手がかりもなにもないような状態というのは、僕はいいものだと思います。もっとも、精神衛生上は、かなりよろしくないものですが……。