コミュニケーションと人為性について

 人は自然なコミュニケーションというものを夢見ていますが、というのは、たとえば「キャラ作ってる」みたいな人がいた場合に、「それはおかしい」と言ったり、「本当の性格出せよ」と言ったりする感覚のことですが、じゃあその「本当の性格」がアクチュアルに存在して、それがゆでたまごのカラをむくように、どこかから現れるかなんかするのか、また、それを出すのが本当に、その時点で、一番良いことなのかどうか、と考えていくと、ずいぶん怪しいものだと思うのですが、そう思いませんか?
 だいいち、今のことの言い方を変えれば、「コミュニケーションから人為性をはぎ取る(ゆでたまごのカラをむくようにして)」ということになろうものですが、ところで、コミュニケーションというもの自体が、人為性そのものと、言えば言えなくもないと思いませんか?
 なにが言いたいのかというとというかここで気を付けたいのは、「あの人自然体だな」とか、「あの人ナチュラル体だな」とかいうように見える人が、本当にそうなのか、ということです。でもそれが理想状態ではない、と言いたいのでもなく、それは「そこそこ」良い状態だとは思うのですが、そこに人為が介在していないかのようなとらえ方がちがうのではないか、といいたいのです。
 つまりどういうことなんでしょ。わかんないですけど。同じようにして、「作ってる」キャラに完全な人為性を見ることも、怪しいものに見えて来はしないでしょうか?