祭り

「明日早いから」という理由でニコ生の放送を今日は取り止めにしたはずが、動画の変換やら洗濯やらやっているうちにこんな時間になってしまうとは誰が想像していたでしょうか。Pさんです。こんにちは。よろしくお願いします。
 カナメさんという生主(ニコニコ生放送を放送する人)の方がウェブカメで近所の祭りのミコシが家を横切るさまを映していて、なんともいえず旅情をそそられました。
 祭囃子においてはテンポなんてカタいものはないんですね。たるんだ揺らぎのようなものが聞いているうちにいつの間にか倍のテンポになっていて、急に音が抜けていくと思ったらいきまた盛り上がるという運動が、その場の雰囲気と暗黙の了解によって繰り広げられるんですね。
 それを幾何学によって画一化したのが西洋音楽のはじまり、と思われていますが、機械的音声合成技術がはじまるまではその西洋音楽でさえそのグルーヴは演奏者の指先のふるえ、気分の高揚、などによって制御され統率された運動が、あったわけですね。
 楽譜に見える幾何学は、イデアのようなものだったんでしょうか。到達不可能なもの、でも別段到達する必要もない人間を導く基準。
 だとするならば、機械的音声合成技術はそのイデアを可能にしてしまったのでしょうか。
 それは読者の想像に任せますが、とにかく下品な「全部一緒」のグルーヴが今や広く出回ってしまったのは事実ですね。グルーヴっていうのは、「テンポの揺れ」のことで、均一でなく軽重のあるリズムを聞いて「グルーヴィーだねえ」なんて言ってカッコつけるわけですが、今言った「テンポの揺れ」という定義がおかしいことに気がついたでしょうか。機械的音声合成技術が出る前の音楽の何万年かの歴史においては、テンポは揺れることが当然だったんです。「テンポ」というもの自体が、本来は音楽に入ってきようのない、管理のための数字のようなものにすぎなかったはずなんですね。
 でも時計とか、メトロノームってものはありましたね。
 じゃあ別に西洋音楽がその端緒を切ったとでもなんとでも言えばいいと思いますが、それよりも、もともとあって当然の「グルーヴ」という語をもとに曲を考えなくてはならなくなった現在の音楽という立場を考えてみるのも、面白いのではないかと思います。そんなことを考えながら曲を聞くのもね。