夏祭り

 近所の大きめの公園できのう大規模なお祭りをやっていました。何の気なしに暇を潰そうと自転車で公園に入ったのですが、ひしめく人波に危うくさらわれそうでした。そのときは昼三時頃でした。
 公園の中に併設されている図書館、体育館があって、普段はガラガラの駐輪場が二段、三段にあふれかえるほど込み合っていて、その図書館、体育館の間の道を通り抜けた先には、広場があります。
 普段は噴水が真ん中にあるのみで、子連れの奥さん、スケボーやダンスを練習する若者がポツポツいるだけのこの広場に、出店が広場を挟むように並び、そこを和服や洋服を着ている人々がチラチラ輝きひしめいていました。
 入ったところから見て左側に、ステージが設営されています。要するに図書館、体育館サイドからはいると、祭りを横から見ている具合になります。出店をレーンに見立てたらその終着点となる舞台の上で、今まさにダンスのパフォーマンスが行われていました。正確に言えば、なによりも先にその軽快なダンスミュージックが、公園に入るより前に、聞こえてきました。
 横から遠くに見えるそのダンサーはうら若い女性の方々だったので、正面から見ようと思って人波かき分けて一番よく見えるところに着いたときにはダンスが終わりうら若い女性の方々は捌けていきました。
「○○高校ダンス部のみなさんでした」のその高校は、私の住む町の名を冠したヤンキー校でした。
 それで嫌気が差した私は舞台の横のスロープ状になった歩行者用の道を上がっていきました。先ほどのレーン、舞台をさらにまっすぐ抜けた向こうにはデパート等の複合施設、喫茶店、そしてこの公園の名に「団地」を付して有名なマンションが林立しています。
 私の目的地はその喫茶店で、アイスカフェラテにガムシロを入れて、それを飲みながらさっき図書館で借りた中井久夫の諸著作を読みました。一気に三冊も借りて鞄に入れたら肩から血が出そうになりました。
 しかし中井久夫の文章は私の尊敬する諸氏が軒並み「名文だ」というだけあってものすごく、思考の胎動をそのまま書き付けているようなところがあって、事後報告式の定式化された精神分析家のものとは格が違いました。
 しかしそれほど良質のものが現代の評価基準に当てはまるはずもなく、なんとか心理学だの、うまく喋れる方法だのという本に埋もれていくのは必定だし、私一人が奮闘したところで、誰も中井久夫を受け入れるだけの受け皿の準備をしていないので、これは一人私の心の中にしまっておこうと思いました。
 本から目を上げると外が真っ暗でした。帰ろうと店を出ると大量に和服を着た若い人たちがゾロゾロと団地の方に帰るところでした。それが私にはどうしても一日の課程を終えた学生が校門からゾロゾロ出てくるところに見えてしまって、これも一種の労働なのではないか、この楽しみすら労働にしてしまうサイクルから人々が開放されるにはどうしたらいいのか、など取り留めのないことをつい考えてしまいました。
 不思議に街灯の薄いところがここまでの道にはあって、顔の判別の付かない和服の人が幾筋も私の横を通り過ぎるさまは、まるで……