視える/読み

 急に思い立って「アレルギー」系の目薬ではなく「エナジー」系の目薬を買った。目が悪い方ではないけれどもほんのすこしのかすみが気になる時がある。基準値の「最高濃度の」目薬。成分にはタウリンが入っていた。試しにちょっと疲れた時に差してみたけれども、すぐには良くわからない。なんにも変わっていないように見える。夜勤入りの時間が来たのでドトールから職場に自転車を漕ぎ出したら今度は視え過ぎることに驚愕した。
 自転車で走っていると辻の横道からミッキーマウスのはめているような白い手袋が走って来た。よく見るとそれはバスで、そうか中の運転手がはめていたのか……と思ったけれども見れば素手で運転している。つまりタウリンの配合されたよく視える目薬によって、脳がそれと認識する直前の記憶の映像まで視えるようになってしまった。他にも脇をツツジの植え込みが高速で流れていくのが、そのツツジの花が何ヶ月かかけて葉の奥から沸き出るさままで視える。視力が脳の奥にまで空隙を拡充して過去と未来が騒乱するようだった。これではさすがにヤバいので、もうこの目薬はたまぁにしか注さないことにした。


 読みを丁寧にすること。精緻化すること。これは一つ一つの単語を認識して辞書とかで引いてきちんと意味を把握して進むこと……ではなく、それを読んだ時に自分のいったいどの部分の記憶が励起するのか、それがまるでつかみどころのない雲のようなものではなく、突然跳ね出てきたピンポン玉のように感じ取り、それを一つ一つ手につかんでながめることだ。しばらく読み進めてきた小説を急に開いてそのはじめのページのはじめの一節を読むが、それが一体どの場面につながるのか全く見当がつかないということがある。それは単に見当識を失うことだけれどもむしろそれがチャンスで、一文字一文字さらに読み進める中のどの点でついにつながりを回復するのか。そこで急に浮かび上がってくる小説の漠とした全体像はしかしどこまで「読めて」いるものなのか。残像のように急に浮かび上がってくるためにそれを観察するのは若干容易になるがそれでも完成にというわけにはいかない。