ヒトの触覚細胞の並びよりも細かい冷たい雨が降る夜に、ビニール傘を差しながら自転車を漕いでいると、そのビニール傘が磨りガラスよりは粗く、しかし個々の粒子が見えない程には細かい水滴に覆われていて、それを通して最近ではくっきりLEDの派手な明るさを主張するようになった青い(緑の)信号の光を見ると、とてもうまい具合に滲む。

 それでわかったけれども、ある音楽は、一つの光景と結び付かなければ音楽にならない。ここで客観的音楽なんてものがまるで意味をなさないことがわかる。
 客観的音楽というのは、音楽をどんな方法でもいいから定義するということと同じだ。誰でもこの要件さえ満たせば音楽になると。僕の定義では、そんな甘いことは許されない。定義と言ったけれども「ある音楽は、一つの光景と結び付かなければ音楽にならない」は定義ではない。
 それはスコープの違う「音楽」という言葉が二重に使われているからだと単純に言うことも出来るけれども、それ以上に定義ではない。僕の考える「一つの光景に結び付く」というプロセスは繰り返し聞くうちに、知られるとか学ばれるとかとは次元が違う「醸造」に似た、もしくはそれと「既にそうであったと発見すること」の間のような形を取る。定義というのは時間を含まない。含むことが出来ない。知られるとか学ばれるとかいったことも、時間のようでいて時間ではない。
 僕の言う「光景」というのは、かつてあなたが見た光景である必要はない。もちろんそうであってもいい。しかしヒトの中は今まであるはずの経験したはずのないあらゆるもので満たされている。普通はそんなものは恐くて考えられることがないけれども、ヒトはまさにそれを自らの根拠というか単位にして生きている。そういう「光景」のことだ。
 だから、人は今まで見てきたものしか発想出来ないなんて嘘も甚だしい。あるサヴァンの能力が、今まで自分の記憶してきたことを剰さず思い出すことだなんて、人間の可能性どころか縮小でしかない。そうではない領域に音楽は軽やかな足取りで連れて行ってくれる。