犬でも猫でも木の幹でも何でもよい、自分以外の何物かを抱《いだ》きかかえて見たくて堪《たま》らない時期

われわれは実際その頃からかつて覚えた事のないさまざまな慾情の発動を感じ始めたのだ。昨年から今年《ことし》へかけて身の丈《た》けが一度に二、三寸も伸びてしまった。顔に皰《にきび》が出来はじめた。五分間でも身体《からだ》を静止させていると坐っていても立っていても、筋肉を通じて一種の苦悩を覚え、むやみに蹶起《けっき》して腕の力一ぱいに美少年でも犬でも猫でも木の幹でも何でもよい、自分以外の何物かを抱《いだ》きかかえて見たくて堪《たま》らない。遂には自分で自分の身体を抱《かか》えて見た事も度々《たびたび》であった。凡《すべ》て角度を有する直線よりも丸味を持った曲線的の物体……

永井荷風『新橋夜話』「祝盃」より)
こんな時期もあったなあ、っていうのと、「その時期」のことを、的確に表現しているなあっていう。
それだけの記事です。