『あめりか物語』と『ふらんす物語』

 永井荷風の初期短編集に『あめりか物語』と『ふらんす物語』というのがある。どちらもほぼ同じ時期に発表されて、題名通りあめりかとふらんす、二つの国で見聞きしたことを柔軟な形式で諸編にまとめた所など、姉妹編と呼ぶにふさわしい。
 荷風はそれから西遊を止して表向き日本文明に浸っていたため、これほどまとまって欧米について書き表すことはなかった。
 なので初期短編の代表で絞るならばこのあめりかとふらんす、どちらの物語がより優れているかという話になるけれども僕は断然『ふらんす物語』の方を取る。
『あめりか物語』の方は、典型的な又聞きの、それも「かつては学問で名をあげようとしたが、色情に引きずられて今は無為な時間を生きている」という、それ自体全く荷風自身を重ね合わせた人の話が多く出てきて、もちろん「酔美人」の中の美術館の描写や、「林の中」の陽が暮れゆく中なされる軍人と黒人女の別れ話の場面など、こちらも息を詰めなければ読めないような所もあるけれども、どうしても風景が薄いように感じられて、それより『ふらんす物語』の各編は断然輝いている。
ふらんす物語』は人から聞いた物語よりも、自分で見聞きした情景の方に傾いている。たとえばすでに社会に擦れてしまった旧友に招かれてふらんす郊外にささやかな日本人の宴の空間を作り出す「晩餐」などにおいても、話の内容には入らずその様子、旧友が自分の知っていた何でも話せる相手ではなく銀行の歯車になってしまった様などを、より克明に伝える。
 しかし人をうつすことは本領ではなく何より風景や街並みで、「蛇つかい」の冒頭のソーン河沿岸の様子。「晩餐」では薄暗いバーの色ガラスの填められた扉、引き出しから出てくるいろんな銘柄のタバコ。
 そして今読んでいる「祭の夜がたり」から。

 自分は大通りを真直に後で知ればこの地の市庁《メーリー》とやら、古びた太い石柱《せきちゅう》を前にし、ゴシック形の装飾ある時計台を頂いた建物の見える広場に出《い》で、その片隅の唯《と》あるカッフェーで食事を済ますと、夜はまだ十二時前ながら、地方の街の静けさは室内に四五人の女が男の相手もなしに坐っているばかり。隣の別室で玉突《たまつき》をする響が電燈のいやに明い天井へと恐しい程反響する。帳場の中には若い内儀《かみ》さんがぽつ然《ねん》と絵表紙の小説を読んでいた。往来には折々女の彷徨《さまよ》う外《ほか》に人通りは絶えている。商店は尽《ことごと》く戸を閉《とざ》している。けれども自分はどう云う訳か、平素《ふだん》旅人が見も知らぬ異郷に迷入《まよいい》った時の不安と恐怖を思う暇《いとま》なく、黄昏《たそがれ》の光に唯一人野を横切る時のような忘れられぬ幽愁の美に酔うばかりであった。

 こんな一節を読むと、僕はいつの間にか読んでることも忘れて、今たしかに触れるようになった風景を見るのに夢中になって、ホログラムのカードの表面を撫でて尚首を傾げる子供と全く同じように、本の文字を一つ一つ拾い上げてもなおそれが風景であることを訝しむ。