方言

 こんにちは。今回は方言についてです。
 柴崎友香は大阪の作家ですが、小説の中では「セリフは(仮にそれをいう人が大阪人だったら)関西弁で、地の文は標準語で」という決まりが一目で分かるほど峻厳に決まっています。
 一人称でも、一人称の地の文が標準語で、セリフが関西弁なのは前述の通りですが、一人称が心の中に思ったこと、また一人称がかつて誰かに聞いたことを思い出すときにはそれは潮流の違いのようにはっきりと関西弁になり、そこを抜けると標準語に戻る、という風になっています。
 でも大阪の作家って、みんなそうなんじゃないの? 僕ははっきり地域でそんなに意識して読む方じゃないので分からないですが、少なくともごく最近意識して大阪の作家として読んだ織田作之助の「アド・バルーン」という小説では、なんというか、すごい滲んでいました。
 一人称なのですが一人称は噺家の父を持っていて、その喋りが移って講談口調になっている、という設定で、身の上を語り出します。
 どう滲んでるのかといえば、地の文で「大阪の言葉でしか言えない」からといって一部だけ関西弁のように話して、またもとに戻る、といったようなことです。
 また、建前としてはまるで全編が語り下ろしのようになっているにも関わらず、途中で小説らしく「」が出てきたりするのは、小説と、人が語ることの境界が滲んでいます。
 いい悪いじゃない、というか、もっと複雑なことを言おうとしているのですが、僕は最近じわじわ思い始めているのは、芸術はある時期から「新しいものは混成的なものだ」という了解が取り付けられはじめたのではないかということです。
 物語だったら夢うつつの、意識と無意識の間のようなことをやって、読者をケムに巻くとか。
 絵画だったら絵の具を盛って彫刻と区別が付かないようにしたり、額縁から外れてどんなところにも描けると言いたげなものとか。
 音楽だったら、ピアノを弾いてる途中で椅子の段が下がって、その音、というかハプニングも音楽のうちだ、とか言い出したり。
 それらにひとかけの正しさもない、といいたいわけではないし、そういうこともあって、それはよかったとは思うのですが、その態度をダラダラ続けることの中には、はじめにあった驚きはもう消え失せたっていうのがありますが。
 それ以上に、その混成的なものを求めるのが、仕事だ、彼らは我々の持ってる常識を取り外して、別のメガネでもって、夢とも現実とも「つかない」、自由なところから新しい世界を見せてくれるのだ、というような僕らの思い描く芸術家像、というのが重かったらクリエイティブな人間像、を我々が根強く持っていること、の方が問題なのですが。「僕ら」とは言いましたが僕はもうそんな風には思っていないのですが。
 そうではなく、というのは今まで僕らが自明のものとしていた仕切りを取り払うだとかいうことではなく、そこに新しい仕切りを静かに置くことが、重要な「彼らの仕事」なのではないかと、最近ぼんやり思っているのですが話が逸れました。方言のことです。
 柴崎友香は静かに仕切りを置く作家だと思うのですが、その小説に使う方言について、エッセイで語っていました。要約すると、
「私は方言に(「関西弁に」ではなく)興味がある。方言は、表面的なユーモアや情緒ではなく、考え方の流通のされ方を変える。
 方言に興味があるから、私が唯一使える大阪弁を使うのであって、他の言葉より大阪弁の方が優位にある、というような理由ではない」
 織田作之助が、というかたぶん方言を扱うほとんどの作家も同じですが、が「情緒」とか「おかしみ」とかいうような評され方をしているのを考えればますますつじつまが合うのですがそれはともかく、「大阪弁の方が優位だ」という考え方は「標準語は優位だ」という意見を押し上げてほんとに標準にしてしまった力と同じ力であって、それを否定するのは、ビリビリと熱を持って動こうとする言葉の境界に、静かに(だから、この形容詞はたとえ話の中に無駄に入れたのではない)仕切りを差し込む動作に等しいのではないかと、Pさんは愚考します。