佐々木中『足ふみ留めて―アナレクタ1』、「「永遠の夜戦」の地平とは何か」

佐々木 『夜戦と永遠』では、ルジャンドルが言っている「系譜原理」について書きました。「系譜原理」とは、子どもを産み育てることの制度的な保障を行う原理です。ルジャンドルは子どもを産み育てることを保障できない国家の形式は存在を許されない、とはっきり言っている。ごく簡略に言えば、これは二重の再分配の原理です。つまり再生産=繁殖のための物理的資本の再分配と象徴的資本の再分配です。貨幣も「信用」に基づくものなのですから、この二つは切り離すことができません。ベーシック・インカムで全住民が月額八万円を与えられるという計算がありますが、それなら三人家族であれば二四万円になります。これは、実は「君たちは生きていていいのだ」という言語的なメッセージを与えることにもなるわけですね。人民に対してこのようなメッセージを与えられない制度的形式は、国家に限らずやはり解消されなくてはならない。
 ご存じの通り、「高等教育の漸進的無償化」を批准していない国は、日本とマダガスカルとルワンダの三ヶ国だけです。象徴的資本の再分配をする気がない、つまり系譜原理を機能させる気がないわけですね。また、女性の働きやすさの指数も国連の機関から発表されていますが、日本は先進国で最低です。女性が大学を出て専門職に就いていたとしても、子どもを産み育てるために一時でも辞めると元の給料は保障されず、再就職しても生涯年収は激減する。言い方は悪いですが「パートのおばさん」になってしまう。大した「先進国」ですね。ドイツで、たとえば働く女性に育児休暇五年の後にも同額の収入を保障することにしたら、それでも他のEU諸国に批判されたと聞きました。休んでいる五年間分の昇級も保障しろ、とね。こうしたことと「少子化問題」が別のことだと考えられているわけです。立場の左右を問わず、子どもを産み育てることができない国家の存立は危ういというのは当然のことだと思うのですが。
佐々木中『足ふみ留めて―アナレクタ1』、「「永遠の夜戦」の地平とは何か」、30‐31p)

 みなさん、全部読みましたでしょうか。一字一句? 難しいように見えたとしてもよーく読めば面白いことが書いてあるので、なるべく全部読んで、どうしても「ダルい」というのであれば太字のところだけでも読んでからこんばんはPさんです。みなさんは、これを面白いと感じるでしょうか。それともこれは「知ってるからわざわざあなたの口から聞く必要はない」類のことでしょうか。僕はこの一連のフレーズを可能にする力、情報としての価値でなく、思想とか批評とかを気持ちよくやるための現実からの切り離しをしないで、そのつながりを何とか維持しようとする力を感じるのですけれども。
 この『足ふみ留めて』という本は、出版されたのが今年の一月で、出たらすぐに買ったわけですがもうクシャクシャになって、破けそうなページすらあります。
 僕はもう佐々木中の文章ならなにについて書いてあろうと飛びつき何度も読んで、そのたびに何とも言えない幸せな気分になるのですが(ファンタジーのような麻痺的な幸せではなく、ヒリヒリするくらい苦い木の実を食べたときのような素朴な覚醒の幸せ)、そんな風にして繰り返し読んだ僕と、そのインタビューのしかも途中をポンと出して読まされた人との差がどこに生まれるのか、もしくは思ったほど生まれないのか、それは受け入れられないという気持ちなのかそれともわかんないということとして出てくるのか、全くつかめないけどそれをつかまないことには話がはじめられないと感じます。
 まずインタビューの文脈はぜんぜん大したことはなく、この前のところに「ベーシック・インカムについてどう思われますか?」という質問があるだけです。
 たぶん普通の人がベーシック・インカムのシステムを聞いた場合には、「本当に財政的に可能なの?」とか、「働く人減るんじゃないの?」という心配を募らせるか、逆にいいじゃんいいじゃんっていう、あのツイッターの津田さん、だっけ? とか東浩紀とかホリエモンとかの言ってることを思いだして、もしくは直接知ってなくても彼らと同じ口調で、「次世代は……」とか、「ゼロ年代が終わって10年代が……」とか、「データベースが……」とか、いう言葉を使ってつぶやくんだと思いますが、佐々木中のいうことは、そのどれとも違うように感じられます。
 まずこの中で「うわあ……読まないで置こう」と思わせる部分は、「ごく簡略に言えば、これは二重の再分配の原理です。つまり再生産=繁殖のための物理的資本の再分配と象徴的資本の再分配です。」というところでしょうか。物理的資本の、ってところは要するにカネ、または物品とか? のことだっていうのは分かりますが、象徴的って、なに? っていう……。
 象徴的なっていうのは、二月の十四日に渡す本命チョコのことです。たった今ちょうど、『君に届け』の七巻を読んで、たとえにぴったりだったことに、びっくりしたんですけど。
 チョコはもちろん物理的資本にもなれて、それは午前中に靴箱に入ってた義理チョコを授業の合間に食べて、午後の体育のエネルギーになるということではありますが、それを食べる間、または体育の授業中に「あのチョコのおかげで動けてる気がする」と思うときに、そのチョコをくれた人の顔が一回でも濃密に浮かばないということがあるでしょうか。
 チョコがその顔でもあること、が「象徴的」な現象だ、と言えると思います。
 ましてや本命チョコの場合は、相手とのつながり自体がそのチョコのほんのちょっとした出来、手作りなのかどうか、型に入れた時に出来てしまったバリ(はみ出してトゲトゲしてしまった部分)をちゃんと処理するのかどうか、などに託されているような気がしてきてしまう、その重み。それがたとえば「象徴的価値」と言えるでしょうか。この世は象徴にあふれています。
 ほんで、佐々木中のインタビューのこの部分でいいたいことは、……そろそろ五千字を越えてしまいそうです。この辺で切り上げておきます。
 ついでに、今日は放送は止めておこうと思っています。考えることが、いろいろあるので。
(つづく)