シー、ファックス!

 みなさんこんにちは、最近、まあ、いろいろあって……なPさんです。浮き足立っちゃって、地に足がつかなくて、浮き草のようになって、います。ので、放送はじめ、いろんなことが手につかないです。
 かろうじて、音楽は聞いてますかね。Ceephaxの擡頭(たいとう)です、僕の中で。
 ビッキビビキビキビキビビキビビキにシンセの効いた、Squarepusherの実弟(じってい)であるアンディー・ジェンキンスンのプロジェクト、Ceephax Acid Crew
 CEEPHAX ACID CREW !!!!
 アシッド好きとしては、たまらないですね。いや、アシッド好きっていって、いいのか? 音楽用語って、まったくあいまいなものばっかりで、困りますよね。
 話それますが、あの声優の浅野真澄が(みんながみんな知ってると思うな!)、ツイッターで、「みんなー、ロックなっていう形容詞って、どういう意味?」っていってたんですけど、……
 僕がことあるごとに、このやりとり、というか、この浅野の問題提起自体、を思い出すのは、ひとつに、「それがなににもたとえられないから、『ロック』っていうんじゃねえの?」というもの、なんです。
 たしかに、これ言ってたのは、伊集院光なんですが、ある若手芸人のコントを見て(ただ、まず店員と客のやりとりをやって、そのあとでバットをひたいに置いてグルグル回って目が回ってる状態でもう一回そのやりとりをやるだけの)、「こんなロックな若手が……」って言ってたんですけど、そういう「ロック」の使い方を見かけた時に、「ロックってなんだよ?」という謎の思いが、攻撃性にまで高まるときって、あると思うんですよね。わからないから。
 その「ロック」のことを、「それはつまり何々ですよ」って言い切っちゃうのも、攻撃の一つの手段だと思うんですね。音楽史自体を背負ってる意味を消しちゃうわけだから。
 浅野は計らずもそのような攻撃性を、表には出さないものの、表明してしまったのと同じだと思うんですね。
 で僕としては、その「ロック」を「かっこいい感じ」「荒れてる感じ」「ルールから外れてる感じ」などなど言い換えるのは反対で、そうすることによってもとあった「ロック」という語の持っていた全て、がそぎ落とされてしまう、と思うんですね。
 と、同じように。「アシッド」という語がありますが、僕にとって、アシッドと呼ばれるある種の音楽は退屈で、またある種のものは退屈ではないので、その退屈なのを指して「アシッド」と呼んでいると思われて、「ああ、あのアシッドが好きなのか」といわれると、困るわけです。
 なんでしょうね。シンセ好きなんですけど、ほとんどのシンセ・ワークには、自動的なところを感じてしまって、すぐに飽きるんですね。
 しかし、そこに物体(アナログ)、非物体(シンセサイズ)の魅力の入り混った、空間と非空間の入り混った、なにものかの存在を感じ取ると、それはもう聞いても聞いても聞き飽きないわけです。飽きるものは一分も聞いたら飽きます。飽きないものは、何時間聞いても飽きないです。
(また横道)人もそうですよね。「この人いかんわ(私に対して何らの刺戟も齎さない)」と思った人は、もう一目でわかりますが、「なんか近付きたいなあ」とか、「なんか面白いなあ」と思う人に対しては、汲めども尽きぬものを感じますよね。
 という、シンセの非物体と物体の間の魅力を、ぞんぶんに引き出した(と僕には思える)CEEPHAXの曲を、ハードループで聞いています。
 そもそも、音って、具体的な部分と、抽象的な部分を、常に表裏一体にして、あわせ持ってると思うんですよ。