寸評
崩れる通信、寸評を急にはじめます。
1、憂野『ホニャホニャプーの棒』(「ホニャホニャプー」シリーズ第5回)
そもそもホニャホニャプーとは、道端に落ちているなんだか分からないものの総称である。
ある写真家は言った。ひとたび写真を撮れば、その撮られたものは、もの自体であることを止め、写真の中で蠢く生命体として、その活動を開始するのだと。
そんな写真家はいなかった。
彼の文体においては、死は生き生きしている。
ブツにしてなお、動くことをやめない触手の生命であり、死である。
その境いで揺動する、ある写真存在を、文体が搔っ捌くのである。
そう、文体が揺動しているので、ひとつひとつの動きに注視しなければならない。
その注視はその都度裏切られるだろう。
2、yoshiharu takui『音楽とラジオと音』「第6回 疲れない音のぜいたく」
兄がモニタリングヘッドフォンについて話をしていて
「○○は全周波数がくまなく満たされたいい音のヘッドフォンなんだがそれを聞いていると全体が刺激されるから疲れてしょうがない、このヘッドフォンがあらゆる音を拾うのは事実だがそれと音楽を聴いていて心地いいのかどうかとは別の問題だ」
みたいなことを語っていたのを思い出した。
音の解像度はつきつめると快とはべつの位置に飛んでいってしまうので注意が必要だという警告か。
3、Pさん『とこしなえにゆるいや』
とこしなえに、ゆるく生きるには。
記憶を掘り返し光景を光と映像に分断する前の状態に引き戻すために努力した話。