今日あったこと

 絵画における絵筆の痕跡は、幾何学的時間の経過を表すものではない、それ自体が絵画に含まれ閉じられた時間のようなものだ。ちょうど、文章が直線に流れる時間のようでいて、実は現実の時間とは独立した違う時間が流れていてそのことを利用し表現するのと同じように。だから、どういうパーツがどのような順番で描かれたかという、画家の肉体と線との密接な関係を追いかけることにそれほど大きな意義はない。
 平和台駅のあゆみブックスに寄って、何も買う本がなくてシャノアールに入った。そこでは山下清が各地の温泉を放浪し、フィンセント・ファン・ゴッホが弟子のようなエミル・ベルナールに手紙で講釈を垂れ、フロイトが神経症者の変態性欲を力説していた。
 昔は温泉なんて半分ほどが混浴、というか全く外に向かって開放されてタダだった。ぬるま湯によってゆるくなった女性が小用をそこで済ますので清は特に目や口が湯につからないよう工夫して入った。それにしても農夫はその血の中に野獣的な何かを宿している。夏の日は頭に熱を集め私を狂わせる。以上のように成人してからの幼年期の精神の再構成は、不確かとはいえそれは少年それ自体を分析するよりはよっぽど楽な作業になる。二歳の時に見た両親の姿が意識下に保存されて、それがある少女との出来事をきっかけに活性化し、そして、そして、シャノアールを出た。
 環八をどんどん下って途中で早稲田通りに右に折れ、善福寺公園を一周りしてからまた進み、途中で歩道がやけに広くレーシングゲームのルートのようにカクカク折れ曲がっている宮本小路に入り、ずっと行くと吉祥寺だ。
 そこの何でもない古本屋に入ったが、そこでは意外なことにルイス・ブニュエルやらアントナン・アルトーやら、後藤明生やらヘンリー・ミラーやら大島弓子やらプルーストやらが手に手を取って踊っていた。帰りにドトールに寄った。
 フィンセント・ファン・ゴッホは狂人ではない。狂っているのは社会の方だ。ラカン先生よ、あなたの嫌らしい性欲に付き合わされたおかげで精神病院に詰め込まれた善人たちは自由にものを考えることが出来なくなってしまった。だがゴルギアスよ、その弁論の技術というのは、本当に技術と呼べるものなのだろうか? 技術というのは私にしてみれば魂を統治するものなのだが、あなたの言い分ではそれは単に、快に媚びておいしい料理を出す料理人の工夫と変わらないのではないか? ちがうとしたら、もう少し私と話をする必要があると思うのだが、どうか?
 その通りだ。ドトールを出た。