動物の感情

 公園を歩いていたら、足の向かう先に鳩がいた。警戒心が弱い個体なのか(鳩は九割方白という中途半端な色だった)、それとも何か地面での用事に惹かれていたのか、私の歩き方が鳩にとって危険なものではなかったのか、いずれであるかはわからないけど、つま先で触れるくらいまで近付いても飛ぼうとせず、逃げる歩調もさほど早めなかった。
 あと一寸のところで諦めて飛び去っていった。例えばこの「諦める」という語。

 例えば猫が、扉を開ければとりあえず出て行き、外に出てから何の用事もないことを思い出して戻って来るこのようなしぐさを「気まぐれ」だと称し「動物のやることだ」とおとしめ理解をやめようとするけど、猫が暖を取るために、寝転がっている僕の膝というか腿というか、とにかく暖まればどこでもいいけどそこに座っている時に(今日急に暖かくなったとはいえ、まだ寒い頃の習慣が抜けないということはわれわれにも多くあるし、猫の体温は人間よりずっと高いから、人間の寒さ、暑さを基準にしてもいけない。そもそも猫には、自分で周りの温度環境を自由に操ることができないという不安もきざしている)、僕が「もうすぐ起きよう」と思いつつ「まだ寝てもいたい」と思いながら、いったん猫をどけるために、自分が膝を立てるようにして動かさせたものの、今度猫は胸の方で粘ろうとして足を畳みはじめた時に、可愛くなってきてしまったのとまた眠気が差してきたのとで、ここに安定させるかのように首をなではじめるというこの流れは猫から見たら十分わけのわからない、理解不能なしぐさに思えるだろうし、この様子を端から誰か人間が見ていたとしてもそうだ。

 感情をあらわす言葉を人間はあたかも自身の特権のごとく見倣しているけど、その多くを、いやもっと強くて多様な感情(あるいは、それ以上の何か)を、動物は持ち合わせている。
 動物は言葉を持たないと言われているけど、しぐさで伝わればそれは言葉だ。あとはこちらがそれを掬い上げられさえすれば、それは未知でいて既知な、古くて新しい豊かで力強いコミュニケーションとなるはずだ。