文体

備考欄:世界はあなたのものです

 物書きである文体が踏み切りを渡って、ひとかどのThe(ジ)・和民を乗り越えてたどり着いた旧約「Can-Do」、道然の買い込みむゃくゃし、ついに、漏らした。

#物書きのみんな自分の文体でカップ焼きそばの作り方書こうよ

 上記のツイートを、先程行った。

 書き方について解説する。

 課題は、「物書きのみんな自分の文体でカップ焼きそばの作り方書こうよ」、である。
「物書き」、あるいは「文体(自分の文体)」、さらに言えば「カップ焼きそば」もそうだが、「作り方」「書こうよ」、この全ての要素が、自明ではない、つまり未確定の要素である。
 そして、特に「物書き」、「(自分の)文体」という部分について、既に自明であるという視点が、このハッシュタグを「書き」している人間に、含まれている。
 私共、これを相対化しなければならない。

 まずは主体を転倒させること。
 何者かが焼きそばを作るのではなく、「物書き」あるいは「文体」が、焼きそばを作る。事実、ここで「焼きそば」を作る主体は、仮構された「何者か」ではなく、「文体」であることは明白で、ここで「何者か」は交換可能であるが「文体」は交換不可能である(と、少なくとも思われている)。
 ここで、「トコロテン」式押し出しによって「文体」を主体の位置に持ち込み、「(自分の)文体」こそが(それとても)交換可能であるということを、示すことが出来る。
 更に、「物書き」である「文体」とすることによって、ここに示す意味としては並列になるが、元来の意味からするとネスト(入れ子)の構造を示唆することが出来る。

 以降の流れは、主に史実に基づく。
 家から「Can-Do」までの道は、まず踏み切りを渡るところからはじまる。
それから、鏡のような「自殺防止」「いのちの電話」の各番号の記載された立て板、踏み切りの石、夕陽、洗浄された気化熱などを粉砕し飲み込みくぐり抜けて、問題の「ワ・タミ」に差し掛かるのだ。
 ご存知の通り、和民グループのなかでも「和民」の名を冠する飲食店の二大巨頭が、「和民」と「坐・和民」である。
(他にも「わたみん家」(け? や?)など小チェーンの広がりがあるものの、ここでは措かせて頂きたい)
「和民」は、正式には「JAPANESE DINING「和民」」である。
 これに対して、「坐・和民」は、「語らい場 坐・和民」となっている。
 表現するところはほぼ同じと見て差し支えもないのだろうが、「坐・和民」の方が、ほっこり、より寛がやかな、思わず「語らい」が噴出し、ときに噴出やりすぎて「超ウケ」の状態にもなり得り、
「コラ、若いから騒ぐのもいいが、場を弁え、そこそこにするのが嗜みだぞ」
 と、隣席の数人のサラリーマンのうちの一人に注意されるという光景も、ままある。
 ここで重要なのは、「坐」の扱いである、文体本人としては、「坐」の「坐」は英語の冠詞「The」と、「座る」の旧字体「坐」つまり「古めかしく座る」との複合的意味合いの掛け詞だという点に注目が行くことなのであり、翻って、現実のこの「和民」に関しては「坐・和民」ではなく「和民」なのだが、想像からすぐに現実化するという意味(あるいはここで文体の主体化が生きてくる)でここでは「坐・和民」であるとすることが出来、かつフロイトの「印象のスライド」現象を利用し、「坐」を「The(ジ)」とし、冠詞としての役割を強調することに成功する。
 同じく、旧約「Can-Do」とすることにより、古典と現代の橋渡しを行うことも出来る。
「道然」とは今までの「道なり」のイメージと、「同然」という言葉の合成による。また、「北海道」全般において言える「道民」また「道庁」という、「名に冠する」「道」であるという意識も、ここに働くことになる。
「むゃくゃし」とは、「むしゃくしゃ」の語幹である「む」「ゃ」「く」(以下同様)と、語の接着剤的役割を成す「し」の素因数分解的な取り出し行為により、「むゃくゃし」という語順を得ることが出来る。
 気付かれた方も多いかと思うが、再び、「トコロテン」式押し出し原理により、文体は主体の地位に立ち、音素は語そのものの位置を勝ち取るのである。
 最後の、「ついに、漏らした。」については、多言を要しないことであろう。

 如上のようなことを以て、彼の「ハッシュタグ」への返答とするのであるが、これによって何らかの文体を提示した、況や文体とは提示出来るものだなどとは露ほども思っていない。そもそも、文体とか言わない方がいい。今さら文体がどうとか、言うだけ無駄だ。文体などありえない。